あらためまして、ハタリです

13時、渋谷で人に会う。
「大きな鞄ですね、お仕事だったんですか?」。いや、バレエです。「?」。こうやってクルクル回ったり跳んだりする、バレエです。「ハタリさんは運動もするんですか」。まあ、日曜の朝はバレエの日と決まってるんで。「なんだか意外に体育会系だったりして」。わたし、空手黒帯持ってますよ。「!」。

最近出会う方とこんな会話をたびたびすることがあります。「あなたが何者かよくわかんないです」と言われることも多いので、とうとつですが自己紹介をしましょう。

一九七六年、北海道生まれ。羊蹄山麓の倶知安町で生まれ、その後はすぐに札幌で育てられる。水泳、絵画、器械体操、スケートなど、さまざまな習い事の機会を与えられるも、どれも向いていなかったみたいで、自分の意思でちゃんと続けられたのはピアノのみ。しかし二年生の春に勝手にミニバスケットボール少年団に加入し、突き指し放題のガテン系小学生となる。お楽しみ会や学芸会の舞台で主役を張ることに情熱をもやす目立ちたがり屋の一方で、ノートに小説のようなものを書きはじめる。中学校でもバスケットボール部で運動漬けの日日を送りつつ、やはり小説のようなものを書きつづける。仲間を集めて同人誌を作り(いま思えばマイ・ファースト・マガジン)、学校の職員室で三百円で売る。売りつけたわたしもどうかと思うが、買った教師もどうかと思う。高校入学。技といえば父親にかけられた四の字固め程度というまったくの武道未経験ながら、「見学にいったらかっこいい先輩がいたから」という軟派な理由で空手道部に入部。毎日放課後に道場に通う運動漬けの日日。学内編集の年刊文芸誌で、北海道新聞主催の「有島青少年文芸賞」を知り、高校二年のときに四百字詰め原稿用紙三十枚程度の短篇を応募。最優秀賞なしの「優秀賞」受賞で作品とインタヴューが朝刊にドーンと掲載。翌日の国語の授業で添削される。高校二年生の夏、空手の北海道大会で団体組手優勝。舞台が大きくなればなるほどめっぽう強くなるという目立ちたがり屋の性がポジティヴに働く。チーム全員二年生で茶帯なのに全道制覇ということで地元スポーツ紙の一面に載る。このころ「自分は体育会系と文化系のどっちでもないなあ」ということに気づき、どちらかに寄ることも考えたが、「どうせなら両方」と欲張りな人生を決意。いま思えばここでちゃんと文化系に転んでいれば、高校の先輩にあたる小西康陽さんやROVO勝井祐二さん、編集者のスガワさんのような、「この筋のちゃんとしたひと」にすこしは近づけたのかもしれないのに惜しい。高校三年生の「有島青少年文芸賞」で優秀賞。審査員の先生に「ちゃんとやる気になればいい作品を書ける」と言われる。「ちゃんと」ねえ……。で、「小説家」という職業への目標をもち、「他人を納得させられるようなストーリーテラーになるためには、文学に明るいひとより、人生がゆかいなひとにわたしはなりたい」と思い込み、文学部以外の学問を学ぼうと考えた高校三年生。志望した大学にたまたま「公募推薦」という制度があって、「空手でインターハイ」と「有島青少年文芸賞を二年連続受賞」というあわせ技と小論文で拾いあげてもらい、齢十八で北海道から茨城県へ。茨城県は東京に近いと思っていたデッカイドウ思考がまちがいだということに大学入学直後に気づき、週末のたびに高速バスで東京へ逃亡。行き先は主にシネセゾン渋谷、パルコブックセンター、ABC、シネヴィヴァン六本木、新宿リキッドルーム、渋谷のレコード屋。つまり、遅れてきた渋谷系オリーブ少女というよりはキューティ派。バカラック。モッズ。フィッシュマンズ。映画をビデオで観まくり、図書館で映画関連の書籍を借り漁る日日。山田宏一さんの名著『友よ映画よ』を読んで感銘を受ける。映画とともに生きていこうと思うようになる。

大学では文化系(映画か音楽)をやるのだーと、その手の同好会をのぞきに行くも、軽音楽部の先輩に「きみは何のコピーがしたいの?」と訊かれて不信感を抱いたことで文化系所属に背を向ける。「入るつもりはなかったけど、見学に行ったらかっこいい先輩がいたから」という、またしても軟派な理由でやっぱり体育会空手道部入部。稽古、合宿、大会、遠征、と、毎日が押忍ざんまい。組手試合や型演舞に夢中の四年間。世界レベルやナショナルチームの選手である監督や先輩とのご縁で、その背中越しに世界の大きさを知る。空手道部ではたくさんの良き師や先輩、仲間たちに出会い、貴重な体験をする。全国国公立大会で団体組手優勝や、最優秀選手賞をいただいたりもしました。そんな空手馬鹿な一方で、ひとり文化系志向は強まり、机に向かって小説のようなものを書きためていた青の時代。同級生たちが地に足のついた将来の展望を語るようになり、自分は「わたしはいまも書いているし、この後もずっと書きつづけたいなあ」と強く思いながらも、自分が何をしていきたいかという夢語りをいっさい封印し、口に出すのを憚るようになる。「宗教学を勉強したい」と入ったはずの大学では、机上の学問よりガテン主義なフィールドワークに興味が移り、「考古学・民俗学主専攻」というコースで、文化人類学を専攻。レヴィ=ストロースの断片と、三陸海岸沿いの漁村に泊り込んで行なったフィールドワークでおいしい海産物を食べた思い出しかありません。

大学卒業後、映画の広告展開やパンフレット制作などのプロモーションに興味を持ち、東京の映画会社へ就職。ハウスエージェンシーに配属になり、イベントの企画運営や広告制作などを行なう企画営業職に。見積を作ったり、イベントの運営をしたり、企画のプレゼンをしたり。映画会社に入ったはずが映画から離れた現場が多くて、入社一年目の生意気ながらフラストレーションがたまる(だって隣の部署では、やりたかった映画宣伝を手がけているんだもん)。たまたま開いた月刊カルチャー雑誌の奥付(レオス・カラックスの『ポーラX』特集だった)に編集者の求人広告を見つける。体力自慢とハッタリで拾い上げていただき、社会人一年目にして転職、雑誌編集者に。新人時代は丁稚をしながら編集ノウハウを学ぶ。映画や音楽担当のアシスタントをしながら、演劇やパフォーミングアーツなどを担当。下北沢や新宿の小劇場に通い詰め、コンテンポラリーダンスを追いかける。自分で企画したはじめての取材仕事は大泉洋さんのインタヴュー、あれは二〇〇〇年冬のことでした。あと、現在ご活躍中の若き劇作家長塚圭史さんの連載もやりました。二年半ほど編集者としてお仕事したのちに、部署異動で同じ媒体の広告営業部へ。精神的にくすぶって、映画館通いが深まる(年間で三〜四百本くらい)。営業のお仕事は目に見える結果が出るのと、企画をビジネスとして実現していく面白さはあるものの、やっぱり文章が書きたいよなあ、手でものをつくる側にいたいなあ。そう思ったところに舞い込んできたのが「勝新座頭市 DVD発売」の情報。二〇〇三年の夏を勝新座頭市』映画二十六本+『不知火検校』の再生に費やす。市っつあんが仕込杖を抜くまでの時間を計ったり、何人斬ったか数えたり。二〇〇三年十二月、「座頭市映画手帖」を発売(→)。それに伴い版元としての屋号が欲しくなって「ハタリブックス」設立(→)。

【座頭市映画手帖】(出版:ハタリブックス)

名刺がわりのこの一冊がコアな座頭市ファンの間で好評を博し、「座頭市のハタリさん」と呼ばれるようになる。平岡正明さんの著作『大落語』でお墨付きをいただく。二〇〇四年、人生においてびっくりするような出来事、つまり「別れ」と「出会い」がつづく。そのうちのひとつが渋さ知らズ(→)との出会い。ひょんなことからプレス的な仕事を請け負い、ひょんなことから海外ブッキングの窓口になり、毎日が英語漬けになる。もちろんこの間も会社員生活はつづいている。タイアップ仕事ではときどき自分で取材をして原稿を書いていました。二〇〇五年三月に、五年強のあいだ勤めていた出版社を退社。四月から渡欧。渋さ知らズの半年間に渡る欧州ツアーにマネージャーとして帯同。ドイツ、スイス、オーストリア、ロシア、ウクライナ、オランダ、ベルギー、ポーランド、イタリアなどなど。旅慣れたメンバーや舞台監督のアベタさんをはじめとする、叩き上げの舞台ガテン系のひとびとの強靭な「現場系文化人」の姿を見て、自分に足りないどころかまったく無かった能力を目の当たりにする。その間も英語で怒ったり文句を言ったり、辛抱強く説明を重ねたりする過酷な毎日。周囲から学ぶことが多く、周囲に迷惑をかけることも多かった。この旅で出会った仲間と旅先の人々と幸運とトラブルのすべてに、どうもありがとう。

九月帰国。無職よりはマシだろうと、屋号「ハタリブックス」で自由業宣言。「三十歳にはフリーに」と思っていたとはいえ、何の計画性もキャリアもなく、成り行きで個人事業主に。間つなぎに「東京ビッグサイトの巨大展示会で白いワンピースを着て企業ブースの前に立ち、ニッコリ笑う」ようなコンパニオン仕事をしていた時期でもある。たまに雑誌に記事や、ジュエリー広告のキャッチコピーを書く。その冬、座頭市関連で出会ったハーポ部長が企画した法政大学での公開講義「平岡正明のDJ寄席」全五回の実況テープがあるのでこれを本にしないかという密談が浅草六区の呑み屋でもつ煮をつつきながら行なわれる。平岡さんを軸に出会った七〇年代生まれの若者数人で平岡神輿をかついで、二〇〇六年九月、単行本『平岡正明のDJ寄席』出版に至る(→)。ずっと雑誌畑で育ってきたハタリにとってはじめての書籍編集の仕事。校正の重要さを知る。

平岡正明のDJ寄席

平岡正明のDJ寄席

書籍仕事の一方で「しばらく無理」と思っていた音楽制作仕事(つまりマネジメント)をつい請け負ってしまい、鬼頭哲ブラスバンド(→)の裏方に。ウェブサイトを作り直すところから(もちろん素人なのでソフトは使っていますが、レイアウトも写真も文章もぜんぶ)、バンド内部のシステム整備、コンサート企画など。二〇〇六年十月、初の観客三百人規模のコンサート「十月の絶唱」を企画運営。この日の収録映像をもとに制作し、二〇〇七年五月に同コンサートのDVD『鬼頭哲ブラスバンドの十月の絶唱』(→)を発売。

十月の絶唱 [DVD]

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鬼頭ブラスはその後コンサートや東京ツアーなどを定期的に行なっています。このバンドに関しては、今のところ企画から運営、細々とした雑用全般、つまり「音楽以外」のたいていのことに手を出している。この「十月の絶唱」直後には岸野雄一さんに誘われて、スパークスの来日公演でひさびさに「ハタリフードサービス」というケータリング業務を発動(→)。渋谷O-Eastのバックヤードでスパークスのツアーメンバーの面々にごはんを出すという大仕事を敢行。あまりの大変さからハタリフードサービスはその後、休業中。な、の、ですが、そろそろ喉元過ぎてなんとやらです(が、料理の腕が落ちているので自信はありません)。この時期に書いた原稿は、雑誌「TOKION」など、二〇〇六年の大晦日にまとめています(→)。

二〇〇七年は先のDVDの仕事をしたり、コンサートの企画製作をしたり、とつぜん沖縄や代官山のステージ上で踊ったり、そんなこんなで、ほとんど原稿を書かないで過ごした一年。「文筆・編集」という名刺の肩書きに「うそつけ」と自分でツッコミを入れてしまうくらいの筆離れな状況にも関わらず、ふしぎな縁がもとで、映画『人のセックスを笑うな』のパンフレットの原稿仕事をいただく(→)。縁とはふしぎなもので、ここにきて、大学時代に憧れていた「映画パンフレット」や「映画関連本」の執筆や編集のお仕事をすることになる。

人のセックスを笑うな [DVD]

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校正の仕事をたまに請けるようになったのも二〇〇七年から。また、秋冬はフェルトフラワーなど手芸にはまり、これを商売にできないものかというあざといビジネス魂が盛り上がって、「ハタリ・ハンドメイド」立ち上げ。調子にのって通販用サイトまで制作(→)。また、趣味の範疇だったはずの「ひとり旅」と「鉄道(「乗り鉄」と路線図好き)」を仕事にしようかなと思いはじめ、旅に出るたび「ミスハタリの冒険と計算」に旅日記を掲載するようになる。「旅に出てばかりいる気楽なひと」という印象がじわじわと生まれてくる。ひそかに「マドモアゼル旅叢書」という企画を考えている。そのための旅であって、道楽、だけ、じゃあ、ないんだよ。好きな旅路線は大糸線と山田線と函館本線(山線)、あとスイスのベルニナ急行。ちなみに赤いキハやツートーンが好みです。

明けて二〇〇八年、音楽関連の企画製作、たまの原稿仕事をほそぼそと続けつつ、校正屋としても働く。その一方で、「自分が書きたい物語」が動き出し、ひさびさに「手でものをつくる」感覚を楽しみながら原稿を書きはじめる。二十歳のころに「ものをつくりたい」という欲望を周囲の誰にも言えなくなったときに、他人に告げつつも実は自分を諫めるために言った「クリエイティヴ・ライティング」という言葉に再会。書き終わるためには書きはじめなくてはいけないというのは、至極当然のことなのに、なんて難しいのだろう。

「書く」と同じくらいに、身体パフォーマンスを形にしようと決めたのも二〇〇八年のこと。何度も観てきたジャン・ルノアール『フレンチカンカン』を正月に観て「わたし、カンカンを踊るのだ!」と決意。すこしの間離れていたバレエを復活させ踊るためのからだづくりをはじめる。夏に稽古立ち上げ。後に引けないように周囲に言いふらす。来春には何かしらの発表をできるようにというのが目標。

フレンチ・カンカン [DVD]

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そして本日、十一月二日。西荻窪の体育館でカンカンを踊っている最中、片足を勢いよく振り上げた瞬間に軸足のかかとが滑ってからだが宙に浮き、そのまま背中から落下、尾てい骨を強打。落下直後はしばらく息もできず動けず。ほうほうのていで自転車をこいで帰宅。

そう、今年が本厄だってことを忘れていたんだよねえ。

と、打撲とむち打ちでしくしく泣きながら自分の半生を反省する、二〇〇八年晩秋の日。