井上荒野『ひどい感じ――父・井上光晴』(講談社)を一日で読み終えた。孤高の嘘吐きであった父親と同じく小説家となった著者が、「チチ」(と、家族は井上光晴のことを呼んでいた)が故郷と言い張った佐世保、崎戸を訪れながら、嘘を真として生きたある男の人生を追いかける。井上光晴には娘が二人いるだけで息子はいない(著者はどこかに異母兄弟がいるかもしれない、と覚悟をしているが)。子供たちに「あんた」と呼びかけ、週末になると横浜だ飯能だとひとり旅行に出かけ(おそらく愛人のもとに通っていたようだ)、「小説のテーマなんていくらでも思いつくけどね」と言って「ひとつ十万円」で売りつけようとした父親。もし著者が「娘」でなく「息子」だったら、事態は父権制的なエピソードに満ちたドラマチックな展開となっていただろうか。ここで思うのは、強烈な存在感をもつ父親に対し「娘」はけっきょく役不足なのか、ということ。中上的な父子関係だけがドラマじゃない、と自分に言いきかせながらも「娘」にとって拭いきれない葛藤はたしかにある、と思う。しかし井上荒野はその「葛藤」を微塵も見せない。そこが好ましいと思った。

神田のそばや「室町砂場」で御馳走になる。茶碗蒸しや玉子焼き、鶏わさ、あさり、焼鳥など。そしてビール。上司のおごりめしは社内接待のようだけどとてもうまかった。雨雲がきれた六月の夜空に満月がうかんでいた。