勝新の眼球、『顔役』

今年は勝新太郎没後十年。命日が巡り、また勝新のいない夏がやってくる。

新文芸坐にて勝新太郎監督『顔役』(1971/勝プロ)を観た。製作に西岡弘善、撮影に牧浦地志、美術に西村善信、この時期の座頭市映画でもおなじみのスタッフが脇を固め、監督勝新をサポートしている。勝新による監督作品といえば『座頭市物語 折れた杖』と八十九年の『座頭市』があるけれど、『顔役』はそれに先駆けた監督第一作目。

二大やくざの抗争と暴力団事件を担当する刑事、暴力団と癒着した上司、ストリッパーや娼婦、不正金融などが登場する、平たくいえば七十年代のやくざ映画勝新ははぐれ者の刑事役。若き後輩刑事(前田吟!)をまるでモートルの貞のように連れ歩いてはいるものの、六十年代に『悪名』八尾の朝吉が健全な乱暴さを発散していたのとはずいぶんと異なる。疲弊した社会への諦念に悩まされながらも、社会と心中するかのように突き進んでいく勝新演じる刑事は、この時代の映画にはありがちな役柄でありながら、どん詰まりの七十年代社会の定点観測としてひとつ面白い。裏社会をも見据え、映画人生を切り開いてきた勝新の視線。この独自の、そして強烈な勝新アイズで映画が撮られている。いわば、観客は自分が小さくなって勝新の身体の中に取り込まれ、その眼球の細胞のひとつになったような錯覚をおぼえながら、強制的に観客は景色を見なくてはならない。それは贅沢な錯覚であると同時に、逃げ場のない拷問ともいえる。

冒頭のやくざの鉄火場。刺青の入った男たちの肌、どこか盛り場の汚い路地、娼婦の溜まり場、ストリップショウにかぶりつきになっている中年男たちの「イイ顔」、停滞する捜査会議、銃弾を受けた親分が肌をほじり返しながら治療する傷口のアップ。見たいもの/見たくないもの、という別なく、極端な近視状態のまま、たとえ不愉快であったり、気分が悪くなったとしても、観客はとにかく観つづけなくてはならない。それが、勝新の眼球の一部になるという体験。

ここでしつこいくらいに多用されるのはクロースアップ。映像効果や構図にこだわったシーンが多い。『座頭市物語 折れた杖』でもそうだった。あのオープニング、板の欠けた橋を渡る老婆と座頭市、その姿を下から煽るようにキャメラが撮っていた。そして老婆が転落する。座頭市の動揺。クロースアップを多用した画面に、いつまでも末期の悲鳴がべっとりとこびりついている。自分のせいではないと念じながらも、悩まされる座頭市コントラストが強い映像が、座頭市の内部に広がる「視界」を描いているようだった。

『顔役』はさすがキャストも豪華。山形勲演じる絵に描いたかのような組長の、ふてぶてしさと迫力! 山形勲演じる悪役は、最後まで勝新といい勝負をしてくれるから好きだ(『座頭市海を渡る』の馬賊とか)。山形の部下は冷静沈着なやくざ新世紀、山崎努。山崎の愛人役が太地喜和子。警察署のなかできれいな脚を見せるシーンが色っぽい。後半になって突然出てくるやくざ親分が若山富三郎兄貴。そしてストリップ小屋の主が伴淳三郎勝新の映画でも、伴淳は伴淳なんだもんなあ、さすがというか、ずるいくらいだ。

この映画は、整合性、辻褄、そういう尺度では測れない、勝新としての絶対。勝新が遺した「景色」を追いかけたいひとなら観ていて損はない映画。そうじゃないというひとには、無理して観なくてもいい映画。