htr2003-06-19

ここ最近、井上光晴の『心優しき叛逆者たち』(新潮社)をよんでおります。たくさんのひとが出てきて混乱しつつも夢中になり電車を乗り過ごすこと多々あり。さて、今夜は原一男全身小説家』(1994/疾走プロダクション)をビデオで観た。癌の手術を重ねた晩年の姿を追ったドキュメンタリー。ドキュメンタリーとは一般に、現実を撮ることと思われているが、必ずしも「現実」=「真実」ではないのかな、とおもう。井上光晴は自作年譜の一行目から嘘を吐いていた。そして嘘に嘘を重ねて生きてきた。「自分の人生のなかから都合のよい部分を抽出して物語を作る、これがフィクションだ」と井上は各地の文学伝習所で語る。都合の悪いことは使わない、なぜなら恥ずかしいから。しかし井上光晴にとっての「嘘」は浮気の言い訳や保身のため、なんていうケチなものではない。なにか、自分の人生において年表に記されてこなかったもっと重要ななにかを暴くために必要な嘘であり、本人自身がいつのまにかそれが真実だと信じてしまう、そういう類の嘘。そんな嘘を虚構と責めるべきか、キャメラは戸籍や周囲の人々の証言を拾い、井上の言葉を検証していくが、途中でその作業を放棄したかのように終わる。なぜなら真実となった「嘘」を現実と比較して暴いたところで、そこには何の意味もなかったからだ。

それにしても井上光晴さんは大モテだ。すべての女性に公平に接し、「あなたは耳が美しい」などと言う。中年女性のなかに女を蘇らせるし、その目と声になんとも言えぬ色気がある。しかし次に会ったときには前に口説いたことなど覚えていない。それを罪な男と責めたてるのは無駄なことだ。だから女たちは関係が終わった後にもみな揃って井上のことを思い恋焦がれつづける。まるで教祖のようなその影響力。あっぱれ。