htr2003-07-23

六本木ヒルズの映画館にジャック・タチ『プレイタイム』(1967/仏)を観にいった。プリントが美しく修正されていて、ユロ氏ウォッチングの愉しさも倍増。冒頭、ここはオフィスか病院かというような無機的なロビーにさまざまな人々が行き交い、大荷物を運んだり時間を尋ねたり子供が行列して歩いていたりと、グレイの地に色の点を軽やかに落としていって賑やかなシーンの出来あがり。結局そこは空港で、かしましいアメリカ人観光客が添乗員の指示を無視してわらわらとパリに繰り出すところから話が進み始める。おなじみユロ氏がのんきな足取りで登場。別になにかしら大事な筋書きがあるわけではなく、ただ画面のどこかに愉快な物事が起きていて、つねに口角がゆるやかにあがっている幸せな感じ。無駄かと思える些末なものごとが多いひとこそ感情的に豊かだ、ということを体現した幸福な映画。映画における「無駄」はいつも何かしらの意味を持とうとして「自称:無駄じゃないもの」であることを主張するから邪魔になる。でもユロ氏をめぐる物事は純粋な意味での「無駄」であり、だからこれほどまでに愉しく愛しい。純粋に意味のない物事をせっせと百集めたら、中途半端に意味ありげなものの二つ三つでは敵わないほどの大きな「意味」が浮かび上がってくるのだ。
また、センス良く(やや皮肉めいてるところも含めて)作られたオフィスのセットもそのなかにユロ氏がまぎれ込むとその異物感がなんとも愉快でしかたない。タチのユーモアが一通りの笑いのあとに爽涼感をもたらすのは詩的な映像効果が仕組まれているから。しかもそれはいつもヤンチャな表情をしている思い付きだ。たとえば、開けたドアにエッフェル塔が映り込んでいたり、店の窓ガラスに反射したバス乗客たちが掃除夫がガラスを傾けるたびに「わー」と声をあげたり、そして荒唐無稽な夜が明けたときの白んだ空の色の美しさ! 満足して映画館を出ると雨の飯倉方面に煙った東京タワーが浮かびあがっていた。かつてここにシネ・ヴィヴァンがあったのは四年も前のこと。わたしが前職の研修期間で働いていたのはそのうちの一週間。タチ映画を渋谷系リバイバルの煽りではじめて観たのは十八歳の頃だった。あれから十年が経った。町の景色もかわるはずだ。ユロ氏は相変わらずのんきでうらやましいけどそれでも彼は彼なりに悩みごとでもあるのだろうと思いながら雨の中かえる。