浅草東宝でオールナイト興行。なつかしくさびれた匂いのする映画館の女子トイレでは、おじいさんが入れ歯を外して洗っていた。小津安二郎小早川家の秋』(1961)は何度でも観たい大好きな映画で、やはり魚顔女優、新珠三千代にほれぼれする。このひとは体つきが着物向きで、縞の着物に黄色と黒のチェックの帯を締めているところも、白い浴衣に半幅帯を角出しで締めているのもすてきだった。加東大介森繁久彌がバアで飲んでいるときに煙草に火をつけようとしてライターの火がバーナーみたいにボッと大きく出るところ、何度みても笑ってしまう。中村鴈冶郎をはじめとして出てくる人すべてが魅力的でおかしい。今回ようやく「東京の叔父さん」が遠藤辰雄だったことに気づいて、隣席の「さ」さんに「吃安だ!」とつげ口した。吃安というのは『座頭市あばれ凧』にも出てくるやくざの悪玉親分で「ドドと吃れば人を斬る」竹屋の安五郎のこと。休憩時間に体操をしてからだをほぐし、次は溝口健二の『西鶴一代女』(1952)と『武蔵野夫人』(1951)。溝口はすごい、ということまではわかるんだが、どうしても面白いとは思えない。ライティングの不思議な味わいは気になるし、決して厭味にならない美意識のラインに感心することばかりなのだけど、まだまだ私にはその本当の姿がわかっていないのだ。あとで、「あーあれは男のひとのなかのロマンチシズムだから、かな」といわれたけれど、もしかしたら単にわたしは田中絹代が好みじゃないというだけのことかもしれない。その点、成瀬巳喜男『秀子の車掌さん』(1941)は気楽なものだった。若き高峰秀子は『女が階段を上るとき』の美しさも『乱れる』で血気盛んな加山雄三を諭すくたびれた表情も『放浪記』の徹底したいじきたなさもないけれど、やはりすきだ。すでにその後の開花を予感させる表情をときどきみせていた。気のせいかな。