htr2003-09-19

ハタリハウスにCSテレビがやってきた! 茄子や朝顔の鉢が並ぶベランダに設置された楕円形のアンテナが南南西の方向からいろんな電波をキャッチしています。さっそく午后十一時からの大映座頭市』特集、今夜は『座頭市地獄旅』。成田三樹夫勝新が「王手、勝負あり」「勝った!」と叫ぶ山道のシーンは何度観てもやはりわくわくする。観終えて満足し、布団のうえで体操しながら適当にチャンネルをいじっていると、ヘリコプターが市街地の上空を飛んでいて、若い頃に大好きだったあの男が、機上からビルの屋上で手を振る水着姿のギャルたちに電話番号をきいていた。ああ、マルチェロ! そう、フェデリコ・フェリーニ甘い生活』の冒頭シーンに出会ってしまった深夜すぎ。わたしはマルチェロ・マストロヤンニが好きだったのかフェリーニが好きだったのかハッキリしないけれど、青い映画ファンの多分に漏れず、十年ほど前にこの二人の映画をおいかけていた時期があった。その後、何度となくフェリーニの映画に圧倒されてきたし、マルチェロに抱かれる夢だって見てきたのに、この『甘い生活』を観返すことは一度もなかった。理由は「長い」から。あれも観たいこれも観たいこの映画もまだ観ていないと欲張っていると、一作品に三時間も拘束されるというのがもったいないと思ってしまったのだ。
そんなわけでずいぶんと久しぶりの『甘い生活』。十年前、この映画を観たわたしは映画鑑賞記録ノートに「すごい映画」と書いていたけれど、本当にすごいと思っていたのだろうか。すごい、って何を差して思っていたのだろうか、と、疑うほどに、改めてこの映画のもろもろに惚れてしまった。フィルム自体は三時間と長いが、ひとつひとつの映像が心地よいスピードで走り抜けていく。マルチェロがアヌーク・エーメとベッドに向かってドライヴするシーンとその翌朝のけだるい空気、アニタ・エクバーグの豊満な肉体、狂乱のローマの夜、マルチェロの夢と絶望、青春、すべてが終わったあとの美しいラストシーン。すてきな映画すきな映画をみると気持が高揚するのが常ではあるけれど、フェリーニの映画を観ると豪勢な夢を見ている気持になり、その後は必ず落ち込む。これは表現媒体としての映画ではなくて、大皿の中央に映画の核のようなものをおき、その周囲に撮影セット(チネチッタ)や、二枚目や愉快な顔をした役者や、ニーノ・ロータの音楽や、そのほか映画を構成するもろもろをのせたものを目の前にドンとおかれた感じがする。そんな料理を前にしたら、はじめはうれしくて興奮するけれど、ナイフを入れたときにはじめてその大きさを知り茫然とする。ああ、これは逆に食われてしまうんじゃあないだろうか。……へんな喩えだった。うまく言えないけれど、そうね、フェリーニの映画を観たあとには体温が一度くらい上がって、熱にうかされてふらふら歩いてしまうのだ。からだのなかが興奮して、おしっこが急に濃くなる感じ。これもおかしな喩えだった。頭ではなくて身体が強く反応し、しばらく浮かれたあとに自分の才能のなさに落ち込む、つまりそういうこと。

そういうこと、十年前のわたしはわかっていなかった。やはり映画は何度でも観るべきなのだ。