満月。目の中にクリアレンズを入れたら灰色の模様までよく見えた。聖橋の上に昇った月にカメラを向けてみたものの、おこがましい気持になってシャッターを切らずに手を下した。下したその手の行く末は、パンチクラスで急性腱鞘炎にかかり、湯船に浮いて、爪きりを持つことになり、テレビのリモコンの「選局」ボタンを押して画面に中村主水を呼び出した。今夜は工藤栄一監督の『必殺三 裏か表か』。

美濃瓢吾浅草木馬館日記』(筑摩書房)を読んでいた。浅草五重塔通りにある通称「木馬館」、一階は浪曲講談の定席「木馬亭」、二階は大衆演劇の「木馬館大衆劇場」。そこに、相模湾がみえるあたりで暮していた画家の美濃氏がやってきて住み込んだ。仕事は大入看板などの絵を描きながら、週に何度か売店に立ってコーラやアンパンを売ること。そこで出あったひとや起こったこと、いや、その町でふつうに流れる日日の景色を見たまま脚色なしに描かれている。はじめ余所者だったはずの著者が、いつしか「浅草」に呑み込まれていくさまが読んでいて心地よい。もちろんそこに強い磁場があろうとも順応できないひとは多い。だからこれは幸せな出会いだ。町の内部から現われた沢村貞子は「私の浅草」という本を書いた。生まれ育った土地から消えていった物事を綴り遺そうという回顧の手法に対し、余所者の美濃は浅草に接するうちにいつしか「私は浅草」になっていた。浅草がからだにとけ込んでいくさまを読んでいると、ふと、先日訪れた午前四時半の通りを思い出す。昼間、電信柱の下に住んでいたひとはどこにいったのだろう。浅草は国際的な観光地でありながら、路地を入ると当然ながら生活そのものが裸で闊歩している。それが余所者のわたしにはふしぎで今までになく心がざわざわしはじめた。人形焼と梅園と「一番」のTシャツのほかは、見るつもりがなければ仲見世から外れなければいいだけの話。きっとここにある町の姿は別に見ようとしなけりゃそれでいい。見たけりゃ見ればいい。見たい。からだじゅうのたがが外れそうな気もするけどできれば見たいとおもう。

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月極めの招待券を握り、浅草東宝に入った。冬休みなのに子供がいない。一列前で幕間に新聞「一馬」をみていた男は、私同様にうとうとしていたが、「大音声」に目を醒ました。何が気に入らないか、男はぶつぶつ呟き始めた。「また、東京をメチャクチャにしやがって」。どうも火炎を吐き出し、高圧線を引きちぎり、ビルを壊しまくるゴジラに腹を立てているようだった。いまどき、こんなセリフ子供だって口に出しやしない。(浅草十三句)