年末のこと。

増村保造『美貌に罪あり』。勝新がただの二枚目役。山本富士子の美貌も、若尾文子のスチュワーデス制服姿も、野添ひとみの湿った黒目も、川口浩の幼い男前ぶりにもキュンとくるが、なによりこれは杉村春子の映画である。旧家最後の盆の夜、近所の親爺たちにさりげなく厭味を酌していく杉村春子の美しさ。原作は川口松太郎。月曜の夕方に新宿の劇場で『マトリックス・レボリューションズ』を観た。前作ではネオ君がすっかりスーパーヒーローになってしまったのが面白くなかった第一要因だと思ったのだが、キアヌが当初の情けなさを取り戻していたのでおおむね満足。大詰めは宗教映画のようでもナウシカのようでもあった。今年最後の嘘に心を痛め、男の子の手を引いてらんぶるの地下へ。赤いベロアの椅子にすわって目の前で起きている出来事に途方に暮れながら、わたしはぼうっとした頭でひとつの引用をあてつける。

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宮下は、二十一回にわたる予審調書の、どこを読んでも徹底した、意志強固な無政府主義者である。この機械工は、主義者として死にいたるまで、動揺の影すら見せていない点では、僧侶愚童に劣っていない。しかしそのことは、「一俗人」としての宮下が、「俗事」において動揺したり、とまどったりしなかったことにはならない。類を絶した、強力無比な「反抗者」であった一労働者が、婦人関係においては、強い加害者であるどころか、むしろ弱い被害者であったこと。反抗者としてあれほどまで、スーパーマン的であった彼が、女性を棄てきれぬ「俗人」としてはチャップリン演ずるところの、あの可哀そうな喜劇役であったこと。(武田泰淳『冒険と計算』(講談社)、「反俗精神」より)

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百年程前の男と女と社会のひとつのエピソードを知ったような顔をして引いてみただけ。口に出さなかったのであの耳にも頭にも伝わることはないでしょう。そしてこれが何事かではなくこの言葉自体を理解できない馬鹿もごく近くにいるでしょう。