武田泰淳の『冒険と計算』がいまだ半分も読み進まないでいる。わたしはピアノを十年習っていた時分でも、両手で鍵盤を弾きながら足裏でペダルを踏むのにギクシャクしてしまうような不器用な性質なので、一度期に二冊も三冊も同時進行で読書することができない。このぶ厚い本をさいごまで読み終えなくては、次に控えている筑摩文庫の『志ん朝の落語』も、戸川昌子『日本毒婦伝』も、みすず書房若尾文子本も読めない。仏教関連の記述や社会、文壇、そしてお愉しみの百合子さんに関するエッセイもある。山本富士子池内淳子が演じた「よろめき」ブームの女性像を批判したり、北海道を元気づけたり、親爺の説教やぼやきも絡む雑多な内容。

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女性というものは、「君は丈夫だよ」とほめられると喜ばない。むしろ、ふきげんになる。どうも、そうらしい。男性にとっては、自分と生活を共にする女性が丈夫であってくれれば、楽しいくらしができる。丈夫なほど助かるから、感謝の思いをこめて「丈夫だなあ」と言うのであるが、ぼくの妻は、この批評を「お前は丈夫のほかに能がない」という意味にとって、怒るのである。(武田泰淳『冒険と計算』 「丈夫な女房はありがたい」)

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恵比寿で『10ミニッツ・オールダー』の「人生のメビウス(トランペット篇)」を観た。十分とは短いようでいてじゅうぶん長い。ビクトル・エリセにとっての十分は、前作『マルメロの陽光』のいくつもの季節に渡ったまなざしと同じくらいにゆるやかなものだった。有名監督を集めた見本市は見本市以上の奇跡を起こさなかったけれど(もちろんそれぞれの特徴は短尺の中にもしっかりしつこく現われているのだが)、シーツにじっと滲んでいく染みのごとく押し寄せてくる深刻な人生のプロローグ、ビクトル・エリセライフライン』と、駆け抜けるような息使いで今日のアメリカを描いた、スパイク・リー『ゴアvsブッシュ』を二回ずつ繰り返して観たいと思った。いまここに十分の時間があれば結婚も仲違いもできるし、悪夢のあとの新たな出会いだって起こり得る。十分あればこの世界を変えられる、あるいは人生を裏返すことだってできると考えるほどの無邪気さはわたしにはないけれど、人工的な険悪さくらいは回避できるだろうと思う。十分でも一年でもそれはきっと同じことだ。