風邪を引いた。浮遊感はあるが不意に倒れるようなドラマチックな盛りあがりはなく、おとなしく静岡みかんドーピングで回復を待つ。北から飛行機に乗ってやってきた友人は浅草ロックス朝風呂あがりで、井の頭公園のベンチでビールを飲んでわたしを待っていた。ニット帽同士でヤアヤアと挨拶を交わし、午前の池まわりを並んで一周した。誘い込もうとしたボアは定休日。ハモニカキッチンは準備中。肉のサトウでメンチカツ行列に参加して出来立てを立ち食いした。横丁では庇のうえを黒猫が影のように歩いていた。公園ドナテロウズでは四匹の猫が好き勝手に店の内外を闊歩していた。いただいたフェルトをさっそく電球の紐かわりにしたら部屋の可能性がぐんと広がった。再びみかんを食べかぜ薬をのんで睡眠。

文化村ル・シネマでスザンネ・ビエール『しあわせな孤独』を観た。「セット撮影禁止」「人工照明禁止」「手持ちカメラ撮影」など、あまりに純粋な「十戒」とも言える規制を敷き、そのなかから新たな映画の可能性に挑戦するという「ドグマ95 (Dogme95)」も二十八作目。この映画の筋を平たく言えば、恋と事故と迷走と自閉と保守と動揺と情けと現実……って、わたしのことじゃん! と、決してそこに描かれたエピソードがそのまま当てはまらなくても自分のなかの何かしらのモヤモヤに具現化された映像を投射したひとがデンマークにはあまりにたくさんいたからヒットしたのでしょう。手持ちカメラのブレ、暗がりの粗い画像。少ない登場人物たちの明確な役割。監督の思い入れの深さに反して(原作も手掛けている)、始終効果的な距離感が保たれているのが好ましかった。

あらゆる人物は被害者であるとともに加害者である。たとえば、交通事故で全身麻痺となった若い男は深い絶望から恋人を拒絶する。恋人は加害者の夫の医師を誘惑する(女はいかなる状況でも自分がどのように相手の目に映っているかを意識しているものだ)。医師は自分だけが事故そのものに関わっていないという疎外感から、被害者の若い女と加害者の妻の両者を救おうと苦悩した挙句に不義密通という形で折り合いをつける。夫に裏切られたことを知った妻は自分の領域(=家庭)を守ろうとする。そして、幼稚な感情をパスポートにして四者のあいだを自由に動き回る思春期の娘の眼差しこそが正常なものだと最後に知る。嵐の後のラストシーンがあまりに清らかで、頻出するテーマソングの押しつけがましさ(せめて字幕がなかったら!)に毒づきながら、近くのフレッシュネスバーガーでチャイを飲んで現実日本のわたしの日常に帰る。なんだ、一度絡まってしまった人間関係は解きほぐすのがそんなに難儀なのか! ドラマチックに倒れる前にみかんを食べて回復を待つのだ。ひとり鍋で栄養をとるのだ。ついつい梅酒お湯割りを呑んだらコップ一杯で世界がまわり出した。じゃがたらベストを聴きながら明日を想像する。いったい何を目の前につきつけられたなら、わたしは「でも」と言わなくなる? いいや、「デモ」「DEMO」と、わたしは何度だって言うだろう。