ようやく武田泰淳『冒険と計算』を読み終えた。年末からの長い戦いだった。ここしばらくの読書はエッセイや評論が続いていたので、そろそろひとつ小説が読みたい。そこで、埴谷雄高『死霊』を最後まで読んでいなかったと思い出して「あっは」「ぷふい」の哲学談義に身を投じる。このあいだ会った頭のいい友人は「彼らの哲学談義そのものを理解できている自信はあまりないし、あのての思索への飢餓感が今の時代に暮す自分にあるかといったら果たしてどうかと思うけど、でも口語体に哲学の核心を投入するということにはものすごい感動した」と言っていたけど、どうも今のわたしにはそこまでの振り切りに欠け、彼らが交わす複雑怪奇な言葉の意味を絶対に分かってはいないくせに、運河の水に浸かりながら話し合う場面の端っこに立って彼らのやりとりを覗き見てたいような、そして恐れ多くもちょっとひとこと口を挟みたい欲求に駆られるのだった。しかし何と言って会話をはじめるのか、それが問題だ。