山下敦弘リアリズムの宿』を観た。つげ義春の二作品を一応の原作にして地を這うように進んでいく非常にローな青春映画。しかしだらけた印象がないのは、無駄なショットを極力削ぎ落としながらエピソードを積み上げているためと、主演二人(長塚圭史山本浩司)の掛け合いの緩急が見事だから。伸びきっているようでいて瞬発力がある。わたしはこの監督の前作を観ていないのけれど、長塚圭史さんに関しては昔いくつか芝居を観たことがあるからすこしなら分かる。彼の演技は素の様子とよく似ている。ただ、彼の素と演技のあいだにある大きな違いというのは、場の空気をほんの数ミリちょっと歪ませたり戻したりすることに意識的になっているかどうかということだろう。その「数ミリちょっと」が本当に巧いのだ。自身の作・演出の芝居になるとそれが「数センチ」に肥大して得意の破綻すらもきちんと計算されて折り込まれたお行儀のよいものになりがちなのだけど、役者としての彼は予期せぬほどに繊細な動きをするので、あー、心配することなど何もないのだなあと心のなかで拍手した。


埴谷雄高『死霊』より。「女は血を流して生きつづけるばかりでなく、他の生をも自分の血のなかにはぐくむ。だが、男が血を流すのは、ひたすら死と合唱するときだけだ。女が生を「保障」にして、まったく同じものばかりをつくりつづけるとき、男は死を「担保」にしてまるで思いもよらぬ違った何かをつくるのだ、と怖ろしいほど理不尽なことを高志兄さんは述べていたのです」「安寿子さん、私達の遠い昔のひとびとがのっぴきならずそこへ踏み込んでしまわねばならなかった「心中」を御存じ……? この「心中」は、男と女の二人でおこなわれると普通いいますけど、そのとき、心の深い真実をこめて実際に「心中」したのは、私達、女だけだったのです。安寿子さん、お解り……? 男は、すべて、必ず、そのとき、どうしても死なねばならぬ重い犯罪やとうてい逃げおおせきれぬ暗いどんづまりの窮地に追いつめられた果て、まぎれもない「自殺」をしたのです。それに対して……どうでしょう、安寿子さん、女は、格別何ら死ぬ理由などこの世のなかの何処にも何一つないのに、ただ愛する男が死ぬというたった唯一の深い悲しみにのみ耐えかねて、自分自身がもっている唯一最高の真実である自分自身の死を愛する男のなかへ、悲しみの果て、いとしみの果て、無理やり投げこんでしまったのです」。