部屋の明かりを点けたままちょっとそこまで出かけた夜半過ぎ。振り返って我が家を見上げたら、なんてこったい! ベランダ窓のすだれ越しに部屋の様子が丸見えだ。つまり真夜中の美容体操をする姿も影絵になっていたということ……と全く同じ話を向田邦子のエッセイで読んだことがあります。「あんたみたいな本を読んだよ」と母親が薦めてきた『眠る盃』。果たして似てるかどうかわかりませんがもし似ているのならわたしもどこかに需要があるような気がして勇気づけられます。
ここのところ電車のなかでは井上光晴『丸山蘭水楼の遊女たち』を読書中。「すらごというても仕様のなかでっしょ」。すらごと(嘘)は徹底的に守りきるよりも、それとなく匂わせながら吐き通すところに色気が生じるものだから厄介だ。井上光晴は後者の嘘吐き、佐世保からはじまったすらごとの数々を責める方こそ無粋者にして、その嘘をも含めて人格にしてしまった。どこまでが本当でどこからが嘘かなんて線引きはナンセンスだ。一方、すぐに見破られてしまう嘘は醜いだけだ。だから嘘を吐くのが下手なわたしは嘘とは無縁だ。嘘を吐くなんてできないしできそうもないしやっぱり無理だ。