htr2004-08-20

ユーロスペースでチョウ・ジェウン『子猫をお願い』(2001/韓国)の最終回を観た。高校を卒業して社会との折り合いを見出すまでの道を、各自それぞれに迷走していく五人の女の子たちのおはなし。二十歳の頃、そのとき絶望は希望と同義語であり一瞬の爽やかさは日々の惰性に裏付けされてこそかがやく。冒頭のシーン、制服姿の少女たちが大騒ぎしてじゃれ合うその姿を観て、男の子は嫉妬やなにやらを感じたりするのだろうか。ちょっとしたきっかけで感情が大きく揺れ、曖昧な嘘をつこうとし、くだらない理由で何かに反発し、根の深い問題からは顔をそむけ、気が向くと突然悩み出したり反省したりする、でも目の前においしいものを出されれば素直においしくいただきまーす、というくらいの逞しさは常にある。それは不可解で気まぐれで無鉄砲で説明不可能なこと? いいやすべて理詰めで説明できることばかりだ。女の子たちは誰ひとり不思議な動きをしていない。もしここで描かれる彼女たちの姿にドギマギしほんのすこしでもそれを羨ましく思う男の子がいるのなら、かつて女の子でいまも相変わらず女の子をつづけているわたしは口をイーッとして言ってやる。まぶしいだなんてそんなことあるもんかッ、こういうのはね、ぜんぶ当たりまえのよくある話なんですよ。加えて、わかったような顔をしている男の子がいたらグーで殴ってやる。この映画を観た男の子は、五人の少女のうち髪の長い娘と髪の短い娘のどちらがカワイイか(あるいはどちらとデートしたいか)それだけを考えていればいいんだ。


五人の少女たちのなかには双子が一組含まれていて、その双子は物語上で重要な何かを成すわけではないのだけど、双子という設定がすでにひとつの免罪符になっている。言ってみれば双子である彼女たちは双子であるということ以上の描写を必要としていない(「双子」という設定があるひとつの役割を彼女たちに与えている)。ではただの賑やかしの人数合わせかと言えばそうではなく、やはり三人では行き詰まりより説明臭い展開を強いられていただろうし、かといって五人それぞれが主張しはじめると人物描写に強弱が付きすぎてしまい散漫なものになっていただろう。


少女たちが主役で女性監督が作った映画だから「女の子」だというわけではない。だってこの映画そのものは女の子言語で喋っているわけではない。破綻のない脚本、少女たちをまぶしく見せようとする思惑(夜のパーティやお泊まり会のシーン)、そして意図的なセックスの排除。ソフィア・コッポラが少女の脚を映したかわりに(女の視点で撮る場合、たいてい女の子の脚は棒のように細い)、この監督は彼女たちの携帯電話をやたらと鳴らす。いつでもどこでも電話に出る彼女たちはよく喋るけれどいつでも大事なことはなにひとつ言えていない。その会話の言葉と言葉とのあいだに埋もれた沈黙、それがこの映画が持つ溝のひとつであり、この溝があるからなんでもないことがまぶしく見えているのかもしれない。