フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』。ドリュリューのメインテーマがかぶさる中盤のあのシーン、何度観てもやはりわたしは飽きずに必ず涙を流してしまう。笑いながらじんとする。そうだ、なにかが動いていく現場が好きだ。机上のうやむやなんてだいきらいだ。ここからどこかに移動したい、移動だけで人生を積み立てたい。現場ではみな同じ場所に集まり、それぞれの役割に沿って動き、いくつかのドラマとロマンスとアクシデントを生み出し、そして映画が出来あがればまた別々の方角へと散っていく。「映画は私生活と違ってよどみなく進む」、失恋して自棄をおこす俳優アルフォンス(ジャン=ピエール・レオー)をトリュフォー演じる映画監督が諭す。「言ってみれば夜の急行だ」。その続きの台詞はなんだか知ってるかい。わたしはいま自分がわからなくなっている。わたしになにかの可能性があるなら、それはなんだっていうのだろう。「これが映画? まるで異常よ。全く悲しい人種ね!」。製作主任の妻がヒステリックにみなを責めたてる。外部からのやかましい正論は現場の理論では明かに筋違いなのに、その失礼な物言いを黙らせることができない。グーで殴れば周辺のなにかも一緒に壊れてしまうし、そもそもグーで殴れるほどこぶしは強くないのかもしれない。いつから自分が強くなったような気がしていたのだろう。わたしは丈夫でもないし賢くもないしまったくもってこうしてトリュフォーに泣きつくことしか術を知らないどうしようもないおばかちゃんだ。