「いわゆる演出というのは、僕の場合にはまったくないですね。現場に行ってもスタッフの側にいることはないし、だいたい僕は寝ていることが多いでしょ。僕はむしろそんなことより、討論していくなかで起爆剤になったりね。そんな意味でいっちゃえば、スタッフワークのおもしろいところは――人間にはいろんな個性があるわけで、一人ひとりがいろんな体験を持ってるわけでしょ――映画をつくるってことはそのいろんな個性が重なり合う。で、重なり合うけど、全面的に重なり合うってことはない。必ずズレが出てくる。そのズレをお互いが見ていく。そこですよね。そのズレが個性なわけで、各々が属しているパートをとおして、カメラのひとはカメラをとおして発言するし、助手の人は助手の人の仕事をとおして発言していく。僕も初めはカメラの横にいて、ああ撮ろう、こう撮ろう、なんて言ってたんですけど、最近は全然そういうことないですね。ともすればスタッフというのは仲良しグループになっちゃうし、うっかりすると重なり合う影だけでお互いがうまくいっていると確信しがちでしょ。そうじゃなくて、重なり合わない影がある。その重なり合わないところにその人があるわけで、僕の場合でいえば、そこにその人と三里塚が表われてくるわけで、それをお互いが検証する行為がフィルムに刻まれていくんだと思う。その意味で普遍的な三里塚なんて描きえないし、あくまでも僕たちの見た三里塚ですよね。」
小川紳介インタヴュー「シナリオ 1972年7・8月号」/小川紳介『映画を穫る』(筑摩書房)より

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「たとえ大杉さんに幾たりの愛人が同時にあろうとも私は、私だけのものを彼に与え、欲しいだけのものを彼にとり得て、ずんずん進んでいけば、自分の生活が拡がってゆきさえすれば、充分満足なのです。」
「私はやはり一方で、理解もし信ずることもできる、あなたのいつものいわゆる無茶を、無理解な人達と一緒に恐がるのです。私達の生活すべてが、「覚悟」になってはいますけれども」
伊藤野枝の言葉/竹中労断影 大杉栄』(ちくま文庫)より

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にんげんねもなくへたもない/みちにさまようちりあくた/ときのながれにみをまかすだけ/しょせんこのみはつねならず/おなじこのよにうまれりゃきょうだい/えにしはおやよりふかいのだ/うれしいときにはよろこんで/ともだちあつめてのもうじゃないか/わかいときはにどとはこない/あさがいちにちにどないように/いきてるうちがはなではないか/さいげつひとをまたないぜ
陶淵明「雑詩」(川島雄三・訳)/川島雄三『花に嵐の映画もあるぞ』(河出書房新社)より