海辺からはじまる朝。

出来こころでまわり道、藤沢から鎌倉行きの江ノ電に乗った。ドーナッツを食べながらの通勤時刻。休日は観光色の濃いこの列車もなんだか今日は暮らしに密着したにおいがしていた。線路近くの軒先には洗濯物。単線路面列車は家と家のあいだをガッタンゴトンと揺れて走る。湘南の海が視界にひらけたとき、わたしは車窓に反射した自分の姿――白いシャツを着て外を眺めている――にきづいておかしくなって笑った。昨日観た侯孝賢珈琲時光』(2003/松竹)で、東武線に乗る主人公(一青窈)みたいだったのだ、その白さが。

映画は小津安二郎へのオマージュという前提から意外なほどに自由に解き放たれた仕上りになっていた。呪縛のような期待が裏切られたことに安堵する。もし何かを継承しているとすれば、ドラマが起きないドラマであるということだ。冒頭の、主人公とアパートの大家が部屋の外で話している声だけが住人不在の部屋に重なるあのシーン、何かが起きるかどうかの暗示を放棄したなんとドラマチックな映像なのだろう。そして観終えたあとに残るのはなんとも正しい徒労感だ。徒労感は悪いものじゃない、なぜならわたしたちの人生の多くがそんな惰性みたいな出来事の積み重なりでつづいているからだ。温く馴染んだ感覚が映像のなかでそのままの姿をあらわしている。小津安二郎がどうのという話はそのうちにわすれちまった。加えて、すばらしいことにこの映画、鉄キチ・ソウルが誇り高くかがやいている。中央線のオレンジ色と総武線の黄色と丸の内線の赤と銀色が斜めに重なり合うあの御茶ノ水交差の景色をおさえるべきだ、そう思いついたのはいったい誰だ? その愛に溢れた電車撮影と現実にほぼ忠実な路線使用に、絶対「電車担当」がいると思ってクレジットを注視したけれどそれらしき役職は見当たらなかった。電車があんなに美しく映された映画はなかなかない。

江ノ電に揺られながら、冬の瑞泉寺で見つけた山崎方代の歌碑に刻まれた詩を思い出した。

手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る