早起きをして午前七時に飯をにぎったら、よく晴れた本日は洗濯日和で行楽日和なのです。「ホリデー快速あきかわ号」は、かしまし娘を秋の遠足へと導く。中央線脱出の定番、ひので山の白岩滝の岩場で弁当を広げて昼時を過ごしたのち、ひのでつるつる温泉のあたたかくまるい湯でゆっくりとのぼせて、湯上りにマッサージ機で極楽行き。あごに垂れたヨダレは癒しの証。

夕暮れ前に駅前に戻ってまた違う方向の山間に向かい、一年で一度ちょうどこの時期だけにあらわれる谷間の集落の祭りにとびこんだ。水面には灯り、土には花、絵や焼物、木の枝にはブランコ。このからだには山の冷たい空気、森が空につくる影絵、そしてお酒と音楽とひとの体温が気持ちよい。こんな村に住みたい。スカンピンで見当違いなこのお嬢さんでも、貨幣を愛にもちかえればきっと暮らしやすい世の中になるだろう。さて、そんな谷間の村のゆかいな祭は渋さ知らズの登場でクライマックスを迎える。この祭の場は一年のうちのたくさんのステージのなかでも特にすきなもののひとつだ。そう、あの夏の夕暮れ、葉山の海辺での幸福なひとときも素晴らしかったが、季節がかわれば音楽は山の祭に幸福な時をもたらす。

夕暮れの山は表情をいくつも重ねながら次第に今日の終わりを誘い込んでいった。山の表情がもっとも豊かなのはいつの季節なのか、それはわたしにはよくわからない。ばかやろう、いつだっていいんだ、とにかく山に入ればあんたの言ってることが愚問だってことに気づくはずよ、と座椅子で猫の背を撫でながらうちの山親爺は言うだろう。北海道の真ん中あたりの侵入禁止の山深い森で、揃いのゴム長つなぎ姿の父娘がヤマメを釣りに出掛けたある秋の日、父親は軽い足どりで幹の細い山葡萄の木に登って実をもいでわたしに投げてよこした、あれは十九の秋でした。父親は山の神様と仲がよい。わたしは山に関しては全くの素人でミーハーでだけど、父親が週末になれば山から出てこなくなった気持ちがようやくわかってきた。おもしろい音楽やきもちのよい出来事というのは耳だけではなくてからだ全部で遊ぶものだってことくらいはわかるようになったのです。山は生き物の集まりだから、夕暮れの山はあらゆるものの表情を幾重にもして今日しかみられない景色を作り出す。祝祭も同じように生き物であるということ、それをからだで感じたのだ。お酒のせいにするには惜しい、からだの感覚が鋭敏になるかんじをこのごろ得ている。霊験というのか、一瞬にして視野が広くなって鳥肌が立つようなふしぎな瞬間。まさしくそれをわたしは言葉にあらわしたい。それがわたしの仕事だと信じたい。山の神様もきっと目を瞑ってゆらゆら揺れていたにちがいない今宵、街灯を忘れた山奥で、たくさんの星を眺めながら些細なことから文字通り宇宙的規模のことまで、おばかちゃんは尿意をこらえながら凍えた頭でいろいろと考えていたのです。