東京国際映画祭コンペティション参加作品である、森崎東監督の『ニワトリはハダシだ』を観た。ヒューマンドラマとコピーをつけるといろんなものが感動のまがい物に隠されてしまうけれど、つまりは、当たり前の物事がいかに当たり前にこの世の中にあるかというその当たり前の素晴らしさに気づかせてくれるから泣けるのだ。泣けるといっても涙が出るわけではない。笑って笑って笑いつづけてその隙間にホロリとくる。日常のなかで泣ける瞬間というのはそういうものではないのかしら。生きているうちには号泣する暇などそうあるものではないのだ。そのへんをあいつに言ってやりたい、無駄なお喋りばかりを重ねるイタリアの中途半端な芸人ロベルト・ベニーニに、ビューティフルなライフってのは特別な舞台装置など必要無くて、当たり前にそのへんに転がっていることに気づくことなんだよって言ってやりたいけれど、舞鶴の港町で広げられる物語は遠いイタリアのことなど何ひとつ気にしてなんていないのだ。

「当たり前」とはいっても、舞鶴の町が舞台であることは地域的な特殊性を帯びている。同じく原田芳雄×倍賞美津子主演の『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』での舞台が原発の町美浜だったように、海辺の町にはいろんな物事(漂流物や密輸者や戦後に朝鮮半島に帰ろうとして謎の爆破を起こした難破事故の犠牲者の亡霊やなんとか生き延びて引き揚げられた乗客の子供たち、など)が漂い辿りつき同居している。あまりに頑丈な父親(その体力は『血と骨』の金俊平並みだ)と知覚障害を持つ十五歳の息子。在日朝鮮人の母親はふしぎな霊感とたくましさを持ち、幼い娘はそのふしぎな力と無垢さを引き継いでいる。父と母はまるで『生きてるうちが花なのよ〜』の原発ジプシーと踊り娘バーバラのカップルのよう。強く深いところで結びついているのになかなか一緒には暮らせない。いや正しくは、だから一緒じゃなくてもつねに一緒なのか、と男と女のふしぎな真理を垣間見たのだった。細かい設定はともかく、森崎監督らしいうれしい場面がいくつもあった。泥酔後にボコボコに殴られて転がされていた原田芳雄を心配した倍賞美津子が「あんたッ、死んじゃイヤー」とその頬を叩き続け、気がついた芳雄が倍賞美津子に欲情して覆い被さるシーンはなんとも素晴らしい。しかも逃れた倍賞美津子は怪我人の夫をその場に残して子供と祖母(李麗仙もやっぱりきれいね)を連れて舟で去ってしまうのだ。それから、自分の失敗のせいで原田芳雄が犠牲になってしまったことを悔やんで「あたしが身代わりになります!」と出た熱血なお姉ちゃん(新人・肘井美佳、このひとも頼もしいテンション)にバシーンと平手打ちをして「あたしの旦那なんだからあんたがでしゃばんじゃないよ!」ときめた倍賞美津子の啖呵がカッコイイ。バンザイ! やっぱりバーバラ姐さんはそうこなくっちゃ!

悪の所在に肩書きがついている分だけ、『生きてるうちが花なのよ〜』や『黒木太郎の愛と冒険』に比べて物語のスケールは小さい。でもやはり今日起きた問題の根底にはあの戦争があってすべてはそこからはじまっているというのは変わらない。そしてその上に男と女とへその下の物語があって、へその下で鯛や平目が舞い踊っているうちに子供が生まれて、子供たちはつながる父と母と町と世界からニワトリは飛べないけどいつもハダシじゃーんと当たり前のことを学びとる。それは特別なことでも稀少に無垢なものではない。ただみんなが忘れたり見逃しているだけで、そんな当たり前のことに気づかせてくれる森崎映画はやっぱりいいなあと思う。

劇中、あ、このヴァイオリンの音はもしや、と思ったらやっぱり太田惠資さんだった。