あくまで当社比ゆえ表に出る数値ではないしこういうことを言うのは滑稽なのですが、最近感覚が鋭敏になっている。感受性というものがあるかどうかはどうでもいいのだけど、身体を通して言葉にして納得する、そのシステムの初期衝動がガツーンと大波でやってくるので驚くとともに面白い。お酒をのんで酔っぱらうと見えなかったものが見えるとか、いろんな合点がいって膝を打ったりとか、その発見が面白い。本日の発見は、ティルマンスの写真に囲まれたとたんに、感動かなにやらでおなかをくだしたこと。トイレでパンツを下げながら、「すごい! すごい! どうしよう! なるほどな! そうだよな! うわー! おなかいたい!」とひとり合点がいった。すべて自分のなかでの大騒動。

ヴォルフガング・ティルマンス展、あと二週間を残すところになってようやくオペラシティに飛び込んだ。ギャラリーの白い壁に囲まれてわたしは途方にくれた。ギャラリーの真ん中でおなかが痛くなったのはひじょうに素直かつ幼稚な反応だと自分でも思う。ティルマンスの写真は彼岸からのラブレターだ。その被写体、友人が不揃いのトマトが窓辺のグラスに挿された植物が空撮の町の風景が四方に頭を散らせたアネモネの花がコンコルドが地下の闇とライトがそして剥き出しの性器が、みなまったく区別差別されずに同一線上に並べられている。目の前に置かれた物体もそしてその影をも同じ扱いをすることの当たり前さがいかに当たり前でないのかということ。ティルマンスの写真はそこが当たり前すぎてその平坦さに驚く。名前をつけることを放棄したときに中身がはじめて見えてくるのだ。ティルマンスの写真は、90年代の温度としか言いようのないぬるい温度とだらしなさと脱力とそして絶望を、消費や政治と同じものとしてただ見ているようだ。ただその立ち場所は渦中ではなくて、あくまで彼岸からの眺めだったのだ。だからとてもやさしくて途方に暮れる。そして正直なこのからだは見事におなかを下したのだった。