日々が束になって過ぎてゆく様子を眺める暮れ。


二十三日、旧友ふたりを招いてクリスマス宴会。ハカセタロウ、ジャン・レノ中尾彬、とまったく食指の動かないものばかりを三つ並べられた挙句に「あなたはそろそろお金の匂いを嗅ぎわけたほうがいいよ」とのアドバイスに腹をかかえて笑う。吹雪の季節に北国に移住する友人の前途を祝いながら、じゃあなぜ正月に里帰りしないのかと問われれば、理由は簡単、寒いのが苦手で雪かきが不得手だから。雪が溶けて川になったころにきっと帰ります。深夜、南国より友来たる。目を離すと「あちー」と言っては全裸になる暑がりのお嬢さんも、十度以上の急な気温の変化と冬の様相に戸惑ったのか、きちんと洋服の前ボタンをしめて眠っていた。


二十四日、朝からパソコン壊れて顔面蒼白。あたたかい部屋で焼き立てのパンを食べようと欲張ったのが悪かった。沈黙する電源ボタンを指で撫でながら愚行を反省。あわてて四方に狼煙をあげて助けを呼ぶ。夜、相模大野まで不可能を通る旅一座、渋さ知らズを観に行く。今年最後のホールコンサートというふれこみ。たまにこうして椅子に座って観ていても、そのうちに尻のあたりがムズムズと動き出す。あやさんがタンバリン鳴らしながら四股を踏んでいたのがかわいかった。えーじゃないかえーじゃないかという唄が頭から離れないまま小田急線と井の頭線に揺られて渋谷まで出て宇田川町の薄暗いカフェで抹茶ミルク。友人と信号待ちをしていたらヨッパライの青年が近づいてきて「お茶でもいかがですか? えっ、およびでない? じゃあ年齢だけでも教えてくださいよう」と訊いてきたのを、昨夜の全裸南国娘が「いやだわあ、年齢訊くなんて面白くない、パンツの色を訊く方がいくらか面白いよ」と答えた。「えっ、そんなの訊いて教えてくれるンですかッ?」「ああ、あの娘、ノーパンだから」「エエッ!」。さてこの日、クリスマスカラーで過ごす。白いフェイクファーの襟巻、赤いニット、緑のスカート、網タイツにロングブーツ。ツメは白にラメ。呑みたい気分を引き摺りつつも酒の後ろ足を逃し終電で帰宅。暗闇のなかでパソコンがウィーンと唸っていたので、へなへなと畳のうえに座り込む。


二十五日、雨戸を閉めてふとんのなかに湯たんぽを忍ばせて眠るのは非常に危険だ。いつまでたっても部屋に朝がやってこない。出来心からサンタクロースに「幸福」をお願いしたら、そんなものは七夕の短冊にでも書いておけと諭された。夜、「発見の会」の公演を観に中野ザ・ポケットまで。この劇場を訪れたのはいつ以来だろう(隣にMOMOができた頃かと思う)、ひさしぶりに芝居を観た。しかもとびきり上等なでたらめな芝居をだ。「前の方で観た方がいい」という忠言に従って三列目の真ん中。駄洒落が世界と時間と生と死をつなぐ二時間半。生半可なアングラというやつはたくさん路上に転がっているが、年季の入った本気のアングラというのは迫力がある。言葉巧みに重ねられていく物語と、他と取り替えのきかない独特な身体性をもつ役者たちと、徹底した駄洒落と、彼岸のセンチメンタリズム。上杉清文さん書く「できることはやれないし、やれることはしたくない」とは含蓄ある言葉だよなあ。音楽は不破大輔さん。


二十六日、町の風景が正月準備にかわる。明るいうちに二度風呂に入った。魚のスープを自画自賛するのにも飽きて渋谷の町に出てみるも今日の居場所はここではない。レイトショウを観る予定が早々に帰宅して三度目の入浴と畳の上でヨガ。平岡正明さんの『大革命論』を読み終えて、いまは山口瞳『温泉へ行こう』の文庫本を読んでいる。寝台列車と温泉という二大好物が出てくるのにいまいち乗りきれないでいる。お針子をしながら飽きもせずに小津安二郎小早川家の秋』を観る。そのまま眠る。


二十七日、滞ったからだをランニングマッシーンの上に乗せてひたすら汗をかく。足元のローラーはひたすら回転するだけではあるけれど、たぶんわたしは前に進んでいる。遅々とした歩みであろうとのろまなカメであろうと。魚のスープがようやく鍋から消えた。正月にむけて豆を煮よう。お重を出そう。そう悪くない一年だったと笑えたらわたしの勝ちだ。ざまあ!と叫んで新しい年に向かってピンポンダッシュする準備を整える。正月準備というものは得てしてそんなものばかり。