さてここで何度目かの『アメリカの夜』の話をしよう。とはいえ観ていないひとを相手に丁寧にお話をするほどわたしはこころが広くなんてないよ。トリュフォー? あれでしょ、ヌーヴェルヴァーグってやつ、部屋の壁に映画ポスターなんて飾っちゃって、あのボーダーのなんだっけ加地君あたりが好きなあれでしょ、なんて抜かすひとがいたら、わたしは黙って部屋を出る。ぶっとばす気分じゃないし押しつけがましく愛を叫ぶ気分でもない。気づかないひとはそのままほかの方向を見てたのしくやっていけばいいとおもうし、気づいたひとはこっそりと「眼鏡のスクリプトガールのナタリー・バイって、パーティのときにミニワンピドレスを着たらやっぱり脚がきれいなんだよね」と言ってくれれば話がはやい。世のなかには、現場が好きなひと、現場に生きようとするひと、ふらふらと現場に引き寄せられてしまうひと、そんなひとたちが多くいるけれど、「君や私のような者には幸福は仕事にしかない」という残酷な言葉をなんの疑問もなく言いきってしまうトリュフォーのこと、わたしはやっぱり憎めない。植草氏がヒッチコックにインタヴューをした際に「趣味はなんですか?」と尋ねて「映画にきまってるでしょ」と叱られたという話があるけれど、それもまた同じ。それがいかに幸福なことかを語るひともいれば語らないひともいて、どちらが好みかはひとそれぞれだろうとおもうけれども、トリュフォーがこの映画を何の気取りも気負いもなく作ってしまったのを観ると、このひとには自分の内側のあれこれを言葉で語る必要などなかったんだろうなあ、だって映画を作ってしまえばいいのだものなあと感動する。

冬の明け方、夜の急行はハタリハウスを二度ほど通り過ぎ、ドルリューのテーマ曲が重なる画面で阿呆の子は今夜も飽きずに涙ぐむ。だって切りかえられるカットのなかにちゃんとジャクリーン・ビセットの脚(机の下からのぞく)も挿し込まれているのだもの。なんとも泣ける話ではないか。