午後、目白駅前の学習院大学へ行く。山田宏一さんの公開授業のお誘い。Y氏の月曜青山映画誌講義のもぐりこみ二年目、夏以降てんやわんや月間が続いてなかなかお邪魔できずにいたら、特別講義があるとお葉書をいただいた。Y氏はご自身の著作と同じような態度で映画についてお話する。つまり絶対に映画より前には出ない。どんなに映画体験が多くても(トリュフォーに限らずありとあらゆる映画の)、Y氏は絶対に映画をおしのけて自分を語ることはない。だから素敵だなあと思う。そしてなんて心地良い勉強の時間なのだろうといつも思う。
今日観たのは、ジェームズ・キャグニーの『彼奴は顔役だ』と、そこから影響を受けたとされるゴダールの『勝手にしやがれ』、そのほか。死にゆく男がふらふらと逃げていくラストシーン、男はたちは死から逃げているわけではなくて、逃げているのか追いかけているのか。その愚かな逃亡/追走を眺めているのはいつも女だ。女は男をけしかけておきながら寸前のところで無表情になって裏切る。恋に絶望して死ぬだなんて無駄にロマンチックじゃあないか。そうして終わる男の映画はさいごに不甲斐ない奇妙な味わいを残す。『勝手にしやがれ』なんて、十代のわたしはなにをたのしんだのだろう。ジーン・セバーグがおしゃれでかわいいなんてのはほんの些細な話だ。いま観たらもっとちがうものが見えるだろうか、それはわからない、でもあのラストシーンの長回しにワクワクするかんじがようやく肌でわかってきた。十八の頃にリバイバル上映で観たときなんてもう飽き飽きしていたのだった。そろそろまた観返そうかと思えた、そうなるまでにゆうに十年が過ぎていた。
ジェームズ・キャグニー、たまらなくかっこいい。AFI(American Film Institute)の授賞パーティの模様をLDでリリースされた映像がある。これがなんと幸福な宴であることか。ジョン・ウェインフランク・シナトラボブ・ホープ、そして主役であるキャグニー、出てくる人々すべてがいちいちエンタテインメント。キャグニーが女の横っ面を叩いたりグレープフルーツをぶつけたりしてもなお女たちが彼を愛すのは、キャグニーはいわゆる「タフ」でありながらも彼の言うところの「甘いアメ」、つまり抜けどころがちゃんとあるからだ。キャグニーは個性派俳優である以前にタップと唄で稼げる上等の芸人だ。笑いと暴力を持ち合わせるひとには色気がある。だから女たちはキャグニーについ色目をつかってしまうのだろう(そしてドツかれたいとまた願うのだ)。

ケーキを手みやげに汐留まで。マンダラスパのハイドロバスの湯に沈みいろいろなことを思う。いろいろなといっても鳥頭で考え得ることなんて限られている。ほしいものとほしくないもののこと、単純明解だ。ほしいけれどもほしいと言うのは憚られること、そんなものは湯のなかに沈めてしまえばいい。ただ厄介にも忘れたころに泡と一緒に水面に浮かび上がってくる。すすんで背に弾を受けた男が千鳥足で逃げていくのをあわてて追いかけるなんてのはもうごめんだ。その姿を見ないで済む方法がどこかにあるにちがいない。でもわたしにはジーン・セバーグがしたようなあんな残酷な表情なんてできそうにない。そうだ、あのジーン・セバーグはちっともかわいらしくなんてないのだ。それに気づくまでに十年かかった。