大量のTシャツにひたすらアイロンをかけていた午後を終え、逃げ去るようにして池袋まで。新文芸坐井口奈己監督の『犬猫』(三十五ミリ版)を観た。オープニングロールに生成の布を敷いているあたり、『小早川家の秋』だとかあのような日本映画の系譜にあるのかな、と思ったら、遠からず近からずな微妙な距離を保ちながら足元をかためていくひじょうに今日的な映画だった。いい意味で地味で穏やかで、何かが起こるだろうと期待させつつも劇的なことはなにも起きない(あるいは起きるのだけど爆発ではない順当な雰囲気に収まる)あたり、そのへんにあるようでいて無い心地良さともどかしさを持っていた。話の筋はごく単純、密室的なせまい人間関係図、役者は与えられた役柄を逸脱することなく演技する。こう言うとひどく地味で起伏のない映画に思えるかもしれないけれどそうではない。そこから独特の世界観を生み出しているのが、とぼけたようでいて冷ややかなキャメラと時に滑稽さをみせる反復の動作だ。気に入ったところをずらずらと思い出した。携帯電話が震えながら橋の手すりから落ちるシーン、「あ」という呟きとともにカメラが遠く引く素っ気無さ。それから井の頭線路沿いの大きな木のある坂道(駒場東大前のあたりだそうです)が、さりげなく二度同じアングルで出てくる。引きの映像と画面の色味にわざとらしさがなくて、いつもこのひとはこういうふうに世界を見ているのだろうなあとまったくの厭味もなく感じさせるのだ。明け方のシーンはほんとうに朝まだきの鈍い色をしていて、くもり空はほんとうに寒そうでうんざりするし、明るい日差しのさし込む部屋の畳はほんとうにあたたまっているのがわかる。犬みたいに馴れ馴れしくて無邪気でとぼけた女の子と、猫みたいに素っ気無い女の子という対比はよくある話で、女の子ふたりというのは岡崎京子の漫画みたいになりがちな題材なのだけど、そういう典型的な逃げ道ではないところに道を探した映画。「なにげない日常」を描いて失敗するものは多々あるけれど(それで思い出すのは、そういえばむかし「ナイトクルージング」がへたに使われたよくわからない映画があったなあ、とかそういうこと)、淡々とした物語を、一歩引いた映像とささやかな動作の反復(吉田喜重が小津映画について語るそれだ)をごく自然なリズムで動かしていく。人物の書き込みにややもったいなさを感じつつも、観終えたあとに残るはくもり空のなかの清涼感。肌に迫り来るリアルがあるかは人それぞれの話。迫り来るリアルという点でいえば、その前の時間つぶしに読み返していた『ハッピーマニア』のほうが肌どころか骨まで迫るものだからそれはそれで厄介な話だ。

終映後、監督の井口さんとあらためてご挨拶をする。以前ハタリブックス古書部の本をお譲りしたことがあり、山田宏一さんを共通項になんとなくもうすでにお会いしていた気がしていたのだけど、顔を合わせてこんにちはと交わしたのは今日がはじめてだった。そこで立ち話をしていくといろいろな物事がつながっていくのがわかって面白かった。お隣にいらしたプロデューサーの方は、わたしが以前勤めていた会社の方だったり、春からの予定と彼女の思惑がつながったり、いろいろなことが芋づるになっていた。幸福な出会いを掘り当てた予感がしてゆかいな気持ちで新文芸坐をあとにした。次回作のお話、どんな映画になることか今からたのしみにしています。