飽きもせずまたトリュフォーの『アメリカの夜』を観ている。今度は英語字幕。映画のラスト、撮影がすべて終わり解散する場面で、プロデューサー紳士が「さよならわたしのキッズたち!」とみなに声をかけるのがなんとも幸福な光景なのだ。さよなら! 映画の子供たち! そしてわたしは今夜もまたこの映画を観る。煩雑さも困惑も低迷もすべて含み得るからこそ、そこが現場と呼ばれるに至る。わたしはフェラン監督にもスクリプターのジョエルにもほど遠い半端者だけれど、それでも現場があるならそこに立っていたい。製作主任の妻(この映画のなかで唯一の「内側に入り込む部外者」)が「これが映画?」とがなり立てる、その異物感までもすべて含むから現場はきっと現場なのだろうなあ。と、近所の古道具屋で八百円で買った日焼けた地球儀を手のひらでグルリと回していたるところで生まれる現場を思う。出発まであと一ヶ月。歩いてきた背後の石橋を叩き壊しながら進むわたしの明日はどっちだ。

風煉ダンス久々の公演『嵐の犬松Z!』というお芝居を観た。中野五叉路の廃映画館「光座」を訪れたのは一昨年冬、発見の会のお芝居を観た以来だった。埃立つ舞台で、とってもファンクなカラオケを観た。ちがうか、そこで目にしたのはカラオケのファンキーさ、だったのかな。反復というのは人生の基本の「き」かつ気狂いの「き」でもあるのだなあ。喉もとの笑いがどこか抜けきらないことがありつつも、やはり役者というひとたちの身体性の強みに圧倒された。からだを裏返してピンク色の粘膜を剥き出しにした姿でプロレスしているみたい。粘膜まで引っくり返せているひと、もうすこしでひっくり返りそうなひと、ひっくり返ったまま戻らないひと。そして演歌のこころと乙女心を鷲掴みにする音楽は不破大輔さん。

すべてが私信の日記です。都合六年生の春を迎えて無事卒業となりました。先行き不透明ながらも清々しく切羽詰まっている毎日。今日までお世話になったみなさんどうもありがとうそしてこれからもどうかよろしく。あらためてご挨拶しますが、まあ、そんなかんじの春がきっと正面からやってくるのです。