清水の次郎長一家がうちに草鞋を脱いだのだ。マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』、この映画が世の中にあるということだけで生きていける、というのは岸野雄一さんの言葉だけど本当にそのとおり。山田宏一さんが『次郎長三国志マキノ雅弘の世界』の序で「わが任侠映画ベストテン」のリストをシリーズ全九作で埋めている(十作目の『第十部 続荒神山』は予告篇のみ制作)けれど、まさにそのとおり。ふやけた映画ファンであるわたしのなけなしの持論は、映画は大衆娯楽であってほしい、という願いであり、生娘に任侠とチャンバラの正しい楽しみ方を教えてくれたのは文芸坐中野武蔵野ホールで観た『次郎長三国志』だった。第一部『次郎長売出す』と第二部『次郎長初旅』を観る。ズラズラ喋る小堀明男の次郎長に子供顔の若山セツ子のお蝶さん、大政鬼吉綱五郎法印仙右衛門、広沢虎造が「張子の虎」としてスクリーンに登場して唸る姿もうれしいかぎり。そして第二部の終盤では待っていました、イヨッ、森の石松登場! 売出し中の次郎長の旅は素敵な仲間を加えて甲州へと進む。そうだ清水港に戻ればゆかいなあいつ、豚松が次郎長を待っている。投げ節お仲さんが「明日は一緒にくれるかなァ」と唄う姿に惚れた石松と三五郎は寄りみちしながら旅をする。いつ観ても笑って泣いてこころを鷲づかみにする映画。どの乾分たちも魅力的で、わたしは清水のあちらこちらに恋をする。

日曜日のこと。与野本町までローザス新作公演『ビッチェズ・ブリュー/タコマ・ナロウズ』を観に行く。ローザスを観るのは数年前の『ドラミング』以来だった。校舎を舞台に踊る『ローザス・ダンス・ローザス』は映像で観たことがある。わたしはそのふたつのローザスを観て自分のからだを恥じた。このからだには踊るという可能性がないと、どうしてすぐ諦めてしまった? あいかわらずわたしのからだは硬いし動きは不器用だし到底ダンサーには程遠いけれど、からだの動きはすべての表情だってこと、そんな簡単なことを気づかせてくれたのがローザスだった。ミニマルなスティーヴ・ライヒの「ドラミング」で踊っていたステージいっぱいを走りまわるダンサー。ドリス・ヴァン・ノッテンのひらひらした衣装を纏い、女の子たちはこちらのからだまで解放した。そして今回、マイルスの「ビッチェズ・ブリュー」に呼応したダンス。男女ダンサーの構成で、前回までもっていた印象とかなり違ったものだったけれど、愉しく観た。ステージ上のDJが耳馴染みある音楽をかけて、男と女が組みながら踊る。わたしが勝手に抱いていた処女性は消えたけれど、処女だとおもっていたあの娘が色を覚えたのね、という新しい印象を上書き保存。新作はコルトレーンの「至上の愛」ときいています。

火曜日のこと。とても面白い音楽を見た。スイス人デュオの「Stimmhorn」という、現代アルペンホルン、ヴォイスとアコーディオンのデュオ。雨の桜木町駅を野毛と反対方向に走り、BankART Studio NYK、ここはかつて日本郵船の倉庫として使われていた建物で、海沿いのホールに入ると天井高くふしぎな空間に長い管のアルペンホルンとホーミーが鳴っていた。見た目の面白さはもちろん、音楽が目に見えてくるというか、からだが楽器になっているひとを観てこちらのからだが呼応して笑ってしまった。すすけていたここしばらくのわたしは、ひと目ぼれで恋をした!
http://www.h7.dion.ne.jp/~bankart/whatsnew/images/stimmhorn_0.jpg
http://www.super-deluxe.com/schedule/schedule.php?lang=JP
http://www.stimmhorn.ch/

BankARTの二階であたたかい紅茶をいただいてから外に出ると雨はすでにあがっていた。くだらない理由でわたしはすこし泣いた。ずっと聞きたかった言葉は耳馴染みがよすぎて、そのここちよさとさみしさに強く絶望したのだ。濡れた地面は黒くて、傘を引き摺りながらぼんやり歩いていたわたしはエアジンまでの道を二度間違えた。川下直広さん不破大輔さん岡村太さんのライヴ。雨のせいかお客さんは男の子ひとりと店員さんしかいなく、久々に贅沢な夜。あたたかいコーヒーをいただいて暖をとるも、ヤンチャでときに暴力的に駆けぬける目の前の音楽はすぐにからだを温める。温めるというか汗が出てくる。

帰宅時間を間違えて大崎駅で電車を失い途方に暮れる。タクシーは山手通りを走り、わがままをいって若林宅に身を寄せる。床に蒲団を二枚敷いていただいて眠る。

わたしになにかの能力があるならそれはなんだろう。わたしの可能性に名前をつけてくれたひとはいまだにわたしのなかのなにかを勇気づける。名前など求めずに目くらで走るほかないとわかっているのに、それでもわたしは目の前の言葉に感謝と驚きとやるせなさを覚える俗者だ。片目を失った石松、盲目の座頭市。森繁なのか石松なのか境目がわからなくなるから『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』は名作だ。ひとは誰でも石松になれるのだろうか、と、思うと希望が芽生える。座頭市にはなれないけれど、「見当つけて斬ってきな!」とハッタリかませるだけの逞しさがほしい。気負いじゃなくて体力だけがほしい。うぶな心に任侠を刻んで、もうすぐ旅がはじまります。