htr2005-07-10

きょうかたるきのうまでのこと。

夕暮散歩の終着地、西荻窪音羽館で何度目かの武田泰淳『目まいのする散歩』を買った。古本屋の棚で見つけるたびに手にとって持ち帰っては誰かに渡すという、これは興味の暴力活動。百合子さんの『富士日記』ではなくて泰淳さんの『目まいのする散歩』、この本はいつもちょうどいい具合に日焼けして函の真ん中がへこんでいたりしてやや毛羽立った手触りなところもうれしい。目まいのする散歩、それは文字通りの運動でこの目まいは病と死の兆候ではあるのだけど、不意と目まいがしてしゃがみこむ泰淳さんのまわりに漂っているすがすがしさはいったいなんだ。泰淳さんが百合子さんについて書くとき、それは『もの喰う女』でも『冒険と計算』のなかの随筆掌篇でもそうだし百合子さんの運転する車で東海道を旅する一連の話でもそうだけど、富士山麓で死に親しんでからの泰淳さんの文章(百合子さんが口述筆記をしている)には絶対に具体的な事柄や感傷なんてどこにもかかれていないのに随所に匂う「終わり」に向かうあの穏やかなかんじはいったいなんだ。とても暑い真夏の日、車のトランクのなかで飼い犬が死んでいたとき、夫婦は黙々と穴を掘ってすぐに犬の死体を埋めてしまった。泰淳さんの歯が全部なくなってしまうと、彼の好物のびわを出すときに百合子さんは歯茎で直接噛んで飲み込めるようにとそれは生ハムかーというくらいに薄切りにする。薄切りのびわなど旨いはずがないのに、泰淳さんはうまいうまいと言ってモシャモシャ食べる。若くて生半可者のわたしには、淡々とした「終わり」がいったい何であるのかなんてわからないし、もちろん穏やかな変移などであるはずがないってことくらいはわかっているけれど、その複雑な諦念に恋という名前を与えたいよな気持ちを抑えられなくなる。もしあなたが古本好きなオリーブちゃんでも百合子フォロワー気取りのクウネル女史でもなくて、事実把握能力が高くてちょっとだけいやしくやさしいひとならば、わたしはこの数冊目の『目まいのする散歩』をほかでもないあなたに渡したいとおもう。


富士山がみたくなったわーと地図を眺めていたら、旅心は二転三転し、水色のマーチにのって奥秩父にたどりついた。肌にやわらかな大滝温泉の湯と荒川村のざる蕎麦をいただいて日曜の極楽を満喫。日日の極楽と娯楽はいたるところにころがっている。温泉に銭湯に横丁の呑み屋のカウンタに。横丁で拾って大事にするよな思い出なんてないけれど、ハモニカ横丁ですてきな中華料理屋をみつけて以来どうにもソワソワしている。せまくて急な階段をあがった二階のテーブルでチャーハンを食べたとき、これまでの七年間に新しい色が加わった。なんてありきたりな味のチャーハンなんだろう! 『目まいのする散歩』をなんとなしに電車のなかで読み進めて、とくべつ感激もせず、でもフーンと状況を受け入れて納得して、本棚の、とりたてて目立つところではないけれど読もうと思えばすぐに取り出せるような箇所に立てかけておくようなひとなら、きっとこのチャーハンのドキドキを感じてくれるはずだ! と、店の壁を見たら、佐藤慶がここのラーメンを大好物だと紹介している週刊文春の記事が貼ってあった。