htr2005-10-15

昨年のいまごろはどんなことをしていたんだっけ、そんなことを思うなんてめったにないことだけど、たわむれに記録を引き出してみたら、やはりあきる野に遠足に出かけて、よく晴れた寒い夜空の下で山の神のことを思っていた。たのしみにしていた恒例の遠足は雨予報で、すっかりへたれた都会の娘たちは近所の公園にピクニックにでかけた。そしてお弁当とお菓子を広げて、昨年とは似て非なるあたらしいおしゃべりをする。

記憶はあいまいなものであまり頼りになるものでもないし、かといって記録は消しゴムで消せるたぐいのものでもない。そもそも過去を悔やむなど幸いなことにほとんどない。ここしばらく、記憶と記録が重たくてショート気味だった。阿呆なあたまで出来る労働ばかりをしてワーカホリック気味になったところで、ひさしぶりに渋さ知らズのライヴに出掛けた。家からスターパインズまで自転車で五分。帰国して一ヶ月ぶりにライヴを観た。この距離がどうして遠いというのだろう。

昨年の今ごろにはなかったものが手元にあって、そして昨年の今ごろ当たり前のようにあったものが離れていった。名前をつけるとしたらそれらはいったいなんだろう。観客席で映画を観ていたらスクリーンへ手招きされた、というのは『カイロの紫のバラ』で、あの映画のミア・ファロウは映画のなかの男性と恋に落ちる。しかし彼は映画の世界に生きているひとであり、さて、その恋心はどうなった?

さいきん映画を観ていないな、と思う。映画館に出かけられていないとか上映情報から疎くなったというだけではない話。わたしはそもそも映画を観るのが好きで、「目撃する」ことを忘れたとしたら、わたしはなにをすればいいかわからなくなる。近くにいても見えていないことは多々あるということに改めて気づいたわたしは、では何を観たい?という大事な欲望を記憶と記録を介して思い出す。