ひとつの曲を何度も聴いている。下心がある。ワクワクするようなタイトルのワクワクするような音楽があって、それを聴くことしかできないわたしが唐突に唄をうたおうと思いついたのは先週のよく晴れたある日のことだった。

昨日も今日も明日も休みで明後日のお米のことを思うとうんざりして、いや実のところはよく晴れた秋の休日なのだから、世の中のみなさんがきちんと学校にいったりお仕事にいったり家事をしたり、ああ、家事はわたしもしているのだけれど、世界が勤勉にまわっているよく晴れた秋の日に町の蕎麦屋とラーメン屋をはしごをしてすごすというのはなかなか幸福な気分になるものにちがいないし、しかも不意にあぶく銭をいただいたいきおいもあってめずらしく新譜のレコード屋に寄ったのだった。買ったのは輸入盤を三枚、どれもなんとなく名前を知っていたりしたものだけどよくわからないというのが本当のところで、でもいずれもわたしが知らなかっただけですでに名盤なのだった。世の中にはいろんな音楽があって、こことは無関係なところで美しく鳴っているのに、自分がその音楽に気づいたとたんにまるで自分の物語だったような気がするこの傲慢さはいったいなんだ。

ジャコ・パストリアス・ビッグバンドの八十二年の日本でのライヴ映像を観た。名前はもちろん知っていて、その音楽もなんとなく聴いたことがあって、すごいかすごくないかの線引きも自分のなかですでにあって、けれど映像を観たのははじめてだった。たとえばこの音がパーンと出揃うかんじ、この驚きとワクワクははじめてのものだ。でもなにか知っているような、このふしぎとなつかしいかんじはなんだ。ベースの音に引っかかるのは低音好きとしてはよくある話だし、刷り込まれたものもいくつかあるとは思う。でも、この自分のなかにあるなにかに呼応させようとする傲慢さはなんだろう。まあ、面白い音楽を前にして自分物語などどうでもいいことで、十曲ほどの構成豊かなステージ映像をお茶の間で楽しんだわけだけれど、こうして驚きとワクワクを感じつつも、なんだか音楽との距離感をつかめずにいる。

この数日ずっと電車のなかでひとつの曲を聴いている。下心がある。唄をうたおうと思う。下心とはなんだ。音楽とわたしの距離を測ろうとするなんて傲慢な話だ。音楽はいつも驚きをもたらすもので、いつだって、ちゃんとした言葉で語ることなんてできない。音楽のまえではわたしの言葉など赤子の泣き声だ。だから唄のなかでは音楽に「小父さん」と話しかけるだろう、照れくさいから日本語以外の言葉で。