htr2006-02-15

ハタリブックスからお知らせです。ご好評をいただきました「座頭市映画手帖」が完売いたしました。つきましては、ハタリブックスのウェブサイトでのお取り扱いを一時中止させていただきます。仲良くさせていただいている書店さんの店頭にはまだところどころ残っているようです。増刷は、したいなあ、しようかなあ、できるかな、わかんない、でもやるんだよ! というわけで準備中。申し訳ありませんがまだ増刷詳細、販売再開の時期はたっていませんが、いましばらくおまちくださいませ。お買い上げいただいた読者の方、応援してくださった方々、冷やかして笑ってくれた皆さん、どうもありがとうございました。そして今後ともよろしくどうぞ。ハタリブックス店主から感謝と驚きとラブをおくります。

ハタリブックス http://hatari.moo.jp/

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夜を通して迎えた朝はまるで春の装いだった。眠たい顔にマフラーを巻いて、コートより薄手の上着を引っ掛けて、駅前でカフェオレをのんで眠気を飛ばし、ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショウに出かけた。淡島千景の特集で、木村恵吾『世にも面白い男の一生 桂春団治』(1956/宝塚)。森繁久彌演じる春団治、その愛嬌ある色男のまわりに、淡島千景高峰三枝子八千草薫という三人のをんな。冒頭からして大阪は法善寺横丁あたり(法善寺横町の看板は、東が桂春団治の筆、西が藤山寛美の筆)、いかにも「撮影所のセット」という感じが匂い立ってきて観ていてわくわくする。春団治というひと自体、相当に面白いのだけれども、この時代の森繁久彌にはいまいちその色気が足らないようなのだ。女にだらしなくて、お金がないくせに面倒見がよくて、あらゆる責任から逃れて、けれども芸の道に対しては革命的というのは、相当に面白い。しかし主軸が春団治のはずが、どうにも、まわりの女たち、とくに高峰三枝子の佇まいに喰われた感じがしてならない。桂春団治の映画というより、もちろんまったく映画の雰囲気は違うのだけれども、成瀬巳喜男の後期映画によくある題材、男の性を前にして模索する女たち、というモチーフが思いのほか目立ってしまっている。森繁にいまいち軽薄さが足らないのか、もちろん素晴らしい役者なのだけど、もし、もしも藤山寛美が演じていたら? と想像してみるとその先の物語が勝手に進むのだ。幕末の品川宿フランキー堺が芸者たちに囲まれていたときのあの軽さ、そして死を予感させる労咳のシリアスな影はどうだ。この時代の森繁はすこし重たいのか平べったいのか、いまいち何かが足らない気がしてならない。

ところでプレイボーイ吉行淳之介はこう言う。「うまくさわれるってことは非常に修業を要することで、さわる対象を意識しすぎると、手の動きがぎこちなくなって、変に生ま生ましくなって駄目なわけだ。さりとてあまり無関心だと、なんの感情も籠らなくて、相手はただその机の角にこすりつけられたぐらいしか思わない。虚実皮膜の間でさわらなくてはいけない。そのさわり方ができるというのは、男としての義務であると思うね」(吉行淳之介『生と性 その秘密を語る』より)

演者森繁に足らなくて、きっと色男の春団治にあったのはこれではないかなと思う。脚本と演出はテンポが良くて優等生的な出来。あまりに優等生的ですこし物足りないわけでもありますが。