htr2006-03-04

エミール・クストリッツアの映画をはじめて観たときの、あの驚きを忘れるはずがないだろう? 死んだじいさんも生き返るよな、『黒猫・白猫』の無茶を極めたハッピーな結婚式のシーン。クストリッツア自身もギターを、彼の息子がドラムを叩いているバンド「ノー・スモーキング・オーケストラ」が、「ウンザ! ウンザ!」とやかましく唄いながらヨーロッパを旅する『SUPER 8』。『アンダーグラウンド』の白昼夢のようなラストシーン。ドナウ河を流れていく島のうえで催される祝祭。そこに重なるのは「昔、あるところに国があった」と語られる強烈な歴史。観終えてしばらくどうしようもなくポカンとしてしまったあのとき、自分が訪れたことの無い遠いところで、土地と歴史と時間と、そこに暮らす人々によって育まれた音楽がたくましく鳴っているという事実に、とかく幼稚で物を知らない日本の子供のわたしは驚いた。感動、という言葉はうさんくさいから嫌いで、大好き、だと片付けるには無邪気さが足らず、とにかくいまだに、驚き、という言葉しか選べずにいる。何度観ても、わたしはきっとそうだ。

二月の終わりの日、フレイレフ・ジャンボリーのライヴをはじめて観た。ロマ音楽やクレズマーのようなと言っていい(と思う)、クラリネットやヴァイオリン、アコーディオンなど九人編成のバンド、噂には聞いていた彼らのパフォーマンスは、予想通りにたのしく、予想以上にたのもしかった。「民族音楽」を自称して鳴らす人たち特有の「狭さ」をゆうに越え、ひとつの大衆音楽として鳴っていた。

民俗性とは土地や歴史に育まれるもので、言葉を返せばその地域や環境に縛られたものだ。たとえばクストリッツアの『アンダーグラウンド』を観て、地下に潜むひとびとが鳴らす音楽を真似することはできても、「帰る土地がない」という悲劇は体験できない。当たり前のことだ。よそのシーンから、ある民俗を伝えることはできても発信することは難しい。伝播と表現は違う。しかしある文化から受けた衝撃が強かったり、憧れを増していくとそこのところが見えにくくなる。フレイレフの人たちはそこを勘違いせず、よその民俗を伝えること、そこに「ちんどん」という自分たちの民俗を混ぜ込んだ音楽を鳴らして、目の前にいるわたしたちにゆかいな時間を見せてくれた。

帰りみちに、クストリッツアの映画を何度も観たいな、と、わたしは思った。

フレイレフ・ジャンボリー http://www002.upp.so-net.ne.jp/freylekh/