htr2006-04-15

それは土曜日、ひさしぶりの休日、風が強くよく晴れた午後のこと。

鮭ごはんが炊けるホクホクとよい匂いが台所にたちこめたら、水筒にほうじ茶をつめて出かけよう。近所の公園の川べりで、具違いのおむすびとほうじ茶とすこしの白波の水割で開かれる大人のピクニック。ズボンの裾をまくりあげた小学生がザリガニを獲ろうとしている。二人の男の子たちがヤイヤイと川中で騒いでいると、メガネをかけた男の子が枝に糸を垂らした即席の釣り竿を手に川岸から声をかけた。ザリガニを獲ろうとしているの? そうだけど? ザリガニは昼間はいないんだよ、朝早くか夜にしか獲れないって、さっき女子が言ってた。フーン。あ、そう。

子どもたちのあの視界を思い出せるかい?

二十年、三十年が過ぎても、誰でもむかしは子どもだった。そんな当たり前のことほど、わたしたちはぞんざいに扱ってしまいがちだ。百三十センチほどの背丈しかなかったわたしたちは何をしていた? 過去の記憶はアナログ媒体だ。劣化もすれば消滅もするし、また突然再生されて驚くこともある。納戸の掃除をしていて八歳の自分が二十年後の自分に宛てた手紙が出てきてぎょっとした。その瞬間に時間の糸がつながる。一部の記憶だけが鮮明によみがえる。公園裏の崖を冒険していてかずこちゃんがスズメバチに刺されたときのこと。ドッヂボール大会で男子の球をお腹で受けて尻もちをついたこと。池に落ちたときのこと。バスケットボールの試合で出番を待っているときのこと。妹が生まれた日のこと。いつかそのまま忘れて消えてしまうだけのことを、ふと思い出したくなった。思い出してほしくなった。知りたくなった。

川沿いにしばらく歩くと三鷹台の駅に出る。久住昌之作、谷口ジロー画の『散歩もの』(フリースタイル)のなかに出てきた絵本の古本屋を探しにきたのだ。漫画のコマのなかに描き込まれた景色だけを頼りに歩いていたら、その店にはすぐに出会えた。なつかしい絵本がきちんと整理されて、本棚にところ狭しと並べられている。店の外に置かれた小さな箱のなかに児童文学全集をみつけた。アルフォンス・ドーデの『月曜物語』の「最後の授業」。説明するまでもない、誰もが一度は読んだことがあるだろう、民族と歴史と戦争を、ひとりの男の子の視点から伝えたあまりに有名な掌編。

「ある民族が奴れいになっても、自分たちの国のことばを持っているかぎりは、牢ごくのかぎを握っているようなものなのだから」(アルフォンス・ドーデ『月曜物語』「最後の授業」より)

道ばたにしゃがみこんだわたしは、小学校六年生、同じ文章を教科書で読んだときの記憶を引き出す。子どもだったわたしは自分が住む町の外に世界があるなんて思っていなかった。どこかにアルザス=ロレーヌ地方という地域があって、フランスとドイツという国があって、いくつかの戦争があって、そこに住む子どもがわたしと同じようにごはんを食べて眠って喧嘩をして叱られているということが想像できなかった。わたしの世界は、毎朝のバスケットボールの練習と、週に一度のピアノのお稽古と、近所に住む好きな男の子のことと、仲良しのあきこちゃんとともこちゃんのことと、学芸会のお芝居のことと、父に連れられていく山キャンプのことと、「八時だヨ! 全員集合」のことと、好物のみそラーメンとリンゴとジャガ芋のことで、ほぼすべてがまわっていた。

子どもの領域はせまい。せまいけれどとても濃い。数ヶ月、数年が過ぎるとその領域はめまぐるしく変化して、わたしたちはいろいろなものを忘れる。忘れることがイヤなわけでも、ノスタルジーを感じているわけでもない。覚えたことは忘れるということ、ただそれだけのこと。

幸いなことに、いま、わたしは自分の言葉を持っている。それがどんなことなのか、これは政治や国家の話ではないけれど、わたしにとってわたしが使えるこの言葉がこの手にあるということは、何よりの勇気だ。

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久住昌之谷口ジロー『散歩もの』(フリースタイル) http://www.webfreestyle.com/