映画は待ってくれる

htr2006-06-12

ときにひどく落ち込むこともある。暗い気もちになるのは趣味ではない。それでも、ちょっとしたことで場の空気が灰色になり、つまらないことで気持ちが濁ってしまうことがある。駅のホームで電車の到着を待ちながら、線路を見おろして「枕木と枕木のあいだはいったい何センチだ?」などと考え始めるのは煮詰まっている証拠だ。電車を四本見送って、乗ろうか乗るまいかとしばらく立ち往生した挙句、いつまで待ってもクリアにならない気持ちを背負ったまま五本目の列車に乗った。

今日は月曜日、学習院大学でのY氏の月曜映画誌講義。

今日のテーマは「創始者の栄光」、ジョン・フォード山田宏一さんの講義はいつも、最初に簡単な解説があって、授業時間の殆どを映像鑑賞に充てるという贅沢なものだ。まずはこの講義ではおなじみの「AFI功労賞」の受賞式の映像。一九七三年、第一回の受賞者がジョン・フォードだ。インタヴュアーの質問をはぐらかして肝心なことは煙に巻くジョン・フォードの回答。「映画の仕事をしたいなんて思わない。なのになぜ映画を撮るかって? 食うためさ」。映画制作や撮影方法など、具体的な「?」には真摯に答えても、映画における精神論やメッセージ性へと質問が及ぶとジョン・フォードは黙る。映画を見てくれればわかるだろ、そういう映画を作っているんだ、そういう態度が許されるだけの映画監督、創始者とはそういうものだ。

淀川長治氏も数十回、数百回と観たという名作『駅馬車』のインディアンによる馬車襲撃シーンに続き、初期作品の中でも珍しい『周遊する蒸気船(Steamboat Round the Bent)』(1935)を観ることができた。無実の罪で死刑が迫っている甥を助けるべく奔走する伯父と少女を乗せた船が運河を上っている。知事に直訴しようと急いでいるところ、運悪く船舶レースに紛れ込んでしまい、思わぬところでレースに参加する羽目になる。物語のキーパーソンになる「新生モーセ」がとても愉快。蒸気船を速く走らせるために新生モーセも協力し、自ら木材を威勢良く燃やし出し、燃料用の木材がなくなると斧で甲板板を壊しはじめ、挙句の果てに船内のエンタテインメントである蝋人形館の偉人たちの人形を次々と窯の中に突っ込んでいくというジョーク。ジョン・フォードの軽妙さがこんなところで観られるなんて!
ジョン・ウェイン主演の『静かなる男』(1952)では、元ボクサーの主人公と妻の兄とのガチンコ殴り合いの長丁場が圧巻。妻役のモーリン・オハラを乱暴に引きずって連れて歩いていくジョンウェイン。男たちの決闘を目前に、最もオトコマエな表情で「あなた、夕飯作って待ってるわ!」と悠然と去っていくモーリン・オハラのうしろ姿。殴り合いを賑やかに観戦する村人たち、冗談みたいに愛らしい野次馬たち。あらゆる展開、構図、が、整数で割り切れるような潔さ。ジョン・ウェインの故郷であるアイルランドを舞台に、映画がいきいきと闊歩している。なんて豊かなユーモアに満ちているのだろう!
ジョン・ウェインの堂々とした立ち姿。ジョン・フォードのふところの深さ。映画的なあまりに映画的な、そうだ、それは山田宏一さんの著作タイトルにもあるとおり、何度も驚くことが許されている「映画的」なアクションだ。

いつだってY氏は「映画の愉しみ」を教えてくれる。映画好きを自称したことがある人なら知っていて当然の映画作品や監督を挙げておきながら、今まで気付けずにいた興奮と幸福感を喚起させ、まるではじめてその映画を観たかのようにわたしたちのこころをくすぐる。Y氏の映画誌講義は映画を教えるという性格ではない。映画を愉しむことがなんと幸福なあそびであることかと、教師ではなく同じ映画ファンの視点から気づかせてくれる時間だ。

いつだって、映画に掬われてきた。アテネフランセの映画室でイグナシオ・アグエロ『100人の子供たちが列車を待っている』や小川紳介『1000年刻みの日時計 牧野村物語』を観た日は、市ヶ谷の外堀に身投げしてやろうというほどに鬱々とした気もちを、あっけなくゼロまで振り切ってしまうほどに、映画は逞しい力でもってわたしを驚かせ興奮させた。心配事で眠れない夜は、成瀬巳喜男『石中先生行状記』の三船敏郎の初々しさがこころを綻ばせ、マキノ雅弘次郎長三国志』の石松からは「馬鹿は死ぬまでェ直らァなァいィ」という定理を教わった。恋愛に迷ったときには川島雄三『洲崎パラダイス』の「かっわいいかっわいいさかなやさん」の唄のシーンで諦念と楽観を同時に学び、昨年の欧州ツアーの旅路では、いつでもフランソワ・トリュフォーアメリカの夜』のドリュリューによるテーマ曲が、てんやわんやに惑うわたしを勇気づけた。

ああ、この世界に映画があってほんとうによかった。