向田邦子 黒い水着の女

htr2006-07-17

ずいぶん前のこと、母からの電話。「さいきん、お母さん、向田邦子の『眠る盃』を読みました」「ほう」「知ってる? 向田邦子?」「『寺内貫太郎一家』」「あんた、『眠る盃』、読んだ?」「ううん」「このエッセイ、読んでてねえ、あーこりゃウチの娘とおんなじだあって思うところがあってねー」「そんなバカな」「読めばわかるよ」「へえ」「というわけで読みなさい、読んでみなさい」。
向田邦子さんのことは大好きだ。と、言うと、わたしのことを知るひとたちは皆揃って「ヤッパリネ」という顔をする。だからあまり口に出して言わないようにしている。それに、向田さんの随筆も、小説も、ドラマも、わたしは影響を受けてしまうのはまちがいない。そんな幼稚な理由から「いちばん好きな向田邦子さんの作品は、黒いモダンな水着姿で岩にもたれて微笑んでいる写真」と言うことに決めていたのだ。
電話口で母が言う。「ベランダの窓に厚手のカーテンを付けておきなさいよ」「どうして」「あの本、読めばわかる」。
http://d.hatena.ne.jp/htr/20040722



向田邦子阿修羅のごとく』(文春文庫)を読んだ。七十歳を過ぎた父親に愛人がいた、というところからドラマは唐突に始まる。あらすじ紹介も解説もすでに手垢がつくほど繰り返されてきた名作だ。「家庭劇」と言いながらも、家庭を「内」から蹴り出し「外」から包み込もうとする物語。「浮気」は、確固たる「愛」でありながらも所在不安定なものだ。浮気が家庭を揺るがすのは、外的な攻撃ではなく、内側にじんわりと作用するからだろう。夫が浮気していると疑って不安定になった次女巻子は、スーパーで無意識のうちに万引きをする。店員に見つけられて気がつく。動転、それから突然の怒りと悲しみ。「――主人――つきあってる女の人、いるんです」。激して打ち明けたあとにやって来る羞恥。夫の愛人は悪くない、そう分別を付けようとする努力こそが女の性なのかもしれない。台所で白菜を漬けながら喋る次女と母。


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「どこに、だれといるか、うすうす知ってるのよ。でもね、あたし、黙ってるの」
巻子が言うと、ふじはうなずいて、「そうだよ。女はね、言ったら、負け」

向田邦子阿修羅のごとく』(文春文庫)

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向田邦子は家庭の内外どちらにも留まらず、出てくる女たちのすべてのポジションを渡り歩く。未亡人ながらよその亭主と不倫する長女、夫の浮気を疑う次女、正論で語ろうとする奥手の三女、奔放な四女。そして長女の不倫相手の正妻、次女の夫の不倫相手である若き秘書、長女の息子が連れてきた婚約者、父親の愛人、次女の娘。男たちをとり囲むさまざまな女がすべて対等にあることが、物語に対向車線を作り交差点を生み出している。「父親が浮気をしていた」という、娘の立場から一方的に見れば「けしからんだけの話」が、いつまでも終わり無くグルグルと周り続ける途方のない物語となっている。
たくさんの女たちのなかでただひとり、四姉妹の母親であるふじだけは放し飼いだ。が、穏やかでのん気な妻であるふじが、顔を歪める一瞬がある。夫の上着のポケットから愛人の子どもの玩具のミニカーをみつけたとき、ふじはミニカーを力いっぱい襖に投げつける。ミニカーは襖に食い込み反対側に突き抜けた。怖いのはその瞬発力ではない。すぐにきちんと花形の千代紙で修復されているところだ。


浮気云々の話には終わりがないので、尻切れのままこのへんでおしまい。「映画はドラマだ。アクシデントではない」、これは小津安二郎吉田喜重に残したという言葉。この意味深な反語を、向田邦子は正しく理解して物語を作っていたのだなあと改めて思う。