マキノ雅弘『次郎長三国志』のお正月

初詣は近所の八幡様へ

正月にはマキノ雅弘次郎長三国志』を観るのだ、というのはスタディスト岸野雄一さんの毎年恒例の行事なのだそうですが、同じことをしている人は全国津々浦々にいるのではないでしょうか。だってこれほど新年の幕開けにふさわしい映画なんてないよ。映画は大衆のもの、野心も下心もなくただ映画が映画であることの幸福をじっと感じさせてくれるもの。そんな当たり前の喜びを教えてくれるのが、一九五二年から一九五四年までに九本も製作されたマキノ雅弘の『次郎長三国志』シリーズ(東宝)だ。

森繁久彌演ずる森の石松の朴訥さや、尾張桶屋の鬼吉(田崎潤)と法印大五郎(田中春男)の滑稽な掛け合いや、追分三五郎(小泉博)の軽薄な色男ぶり、そして終始のんびりと構える小堀明男の次郎長親分らが描く、チャンバラと人情の娯楽絵巻。ときにホモセクシュアルなコミュニティを感じさせるまでに仲良く、いたずら好きな男子中学生並に結束したこの次郎長一家を観ていると、にぎやかな清水の衆に加担したくなってつい座布団から尻が浮く。もちろん幕末という時代の流れや任侠世界ならではのむなしさ、妻との別れ、仲間の死といった悲しい現実に出遭い、裏切りや仇討ちといった物事にも泣かされるのだけど、そんなことまでもしっかりと巻き込みながら、ワッショイワッショイと彼らが担いでいく清水一家の神輿はいつも予定調和なまでに幸福な安堵感を誘い込んでくれる。山田宏一さんは『次郎長三国志―マキノの雅弘の世界』の序文でこう記している。

「私にとってはそれ(傍点)が『次郎長三国志』シリーズなのである。ターザン映画や海賊映画などとともに映画の醍醐味を知った作品群だ。映像と映像のあいだにテーマとか意味とか、「作家」の自我などを見ることなく、ただもう単純に、純粋に、文句なしにたのしめた幸福な映画の原型なのだ」

次郎長三国志―マキノ雅弘の世界

次郎長三国志―マキノ雅弘の世界

もう、そのとおりとしか言いようがない。この映画にはじめて出会ったのは池袋の新文芸坐にて。おじいちゃんたちで混みあった映画館で大笑いして以来、中野武蔵野ホールでも、自宅のビデオでも、いつもいつでも次郎長一家はにぎやかにわたしを笑わせしんみりと泣かせてくれた。久慈あさみが演ずる投げ節のお仲さんの妖艶ながらもしゃっきりした立ち居姿にこの数年のわたしはずいぶん影響を受けたし、幼く愛らしいお蝶(若山セツ子)には愛される女の幸せを見たし、夫の尻を叩くチャキチャキぶりながらも内助の功を働くお園(越路吹雪)こそ、いつかたどりつきたい女の生きざまそのものだ。あなたが男の子だったら、恋を知る前の石松と恋を知ったあとの小政(水島道太郎)が川面を見つめながら語り合う姿に思うところがあるかもしれない。わたしたちは『次郎長三国志』のあらゆるシーンに勇気づけられ、そして大衆娯楽である映画そのものの力強さを感じる。マキノ雅弘が仕掛ける細やかな演出は、そのひとつひとつの仕草は控えめながらも、わたしたちのこころの奥深くにできた水たまりに投げ石をするかのように、情動の波を立てるのだ。

第七部「初祝い清水港」は、不義理を働いた元相撲取りの久六によって殺された、次郎長の妻お蝶の喪に服し、百日の忌が明けるまで刀も捨て酒も絶ち復讐の機会をじっと待つ清水一家のお話。正月には大政や鬼吉が門付け芸人のごとき漫談を披露したり(!)、森繁と三五郎が皿回しをしたりと、町中で大騒ぎ。それを見た人のうちには「次郎長一家もすっかり堕落したもんだ」と非難するものもいたけれど、じっと耐え忍ぶ。そんな状況に我慢できなくなった乾分たちに大政(河津清三郎)が言う。「忠臣蔵の大石さんというお方は、敵の目をだますために復讐までの長い間ずっと馬鹿のふりをしていたんだぞ」「そんなのは本当に賢い大石さんだからできたんでしょう、だってわてらは馬鹿ですもん、無理です」「馬鹿だからこそ馬鹿でいなくちゃいけないのだ」。もう、ほんとうに次郎長一家は立派だなあ。

後半にはちゃーんと越路吹雪広沢虎造も登場し、その強いキャラクターで物語を頂へと盛り上げる。忌明けの夜ににっくき久六によく似たふぐで宴会をして一家全員毒にあたり、そんな情けない噂を聞きつけた久六一家が清水港に殴り込みをかけてくるという、ウソかマコトかハラハラするよな展開。次郎長一家とすごすお正月、今年もよい年明けとなりました。

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一月二十七日からは、一年ぶりに渋谷のシネマヴェーラマキノ雅弘次郎長三国志』特集上映があるようです。ほかに『續清水港』や『昨日消えた男』や『やくざ囃子』などの作品上映も。大事にビデオに撮りためた作品も多いけれど、やはりスクリーンで観たいなあと、飽きることなく思ってしまうのがマキノ映画の妙味。ほんとうにすきな映画は何度観ても飽きることなど無いのだ。ひさしぶりにビデオを借りに出かけたら、観たいと見つけた映画はすでに観たことがあるものばかりで、これはなんと幸福なことかと思った次第。と同時に、まだ観たことのない映画のなんと多いことか。それもまたほんとうに幸福なことです。