高木正勝―誰かとわたしのノスタルジー 【改訂】

masakatsu takagi ”air’s note”

高木正勝さんのことを知ったのは、世の多分にもれず、数年前のこと。たしか『rehome』がW+K東京LABからリリースされるすこし前のことで、きっと二〇〇二年の終わり頃のことだったとおもう。そのころ雑誌編集部で働いてたわたしは、いただきもののサンプル盤の白いCDRを何度も何度もくりかえし聴いていた。アンビエントエレクトロニカ、女の子のキュートなウィスパーボイス、それはなんとでも言えるものだったのだろうけれども、いつも耳に残るのはどこかなつかしく心地よいメロディラインだった。同じ時期に出た『rehome』と『sail』、この二枚を聴き比べると、もちろんいたるところに同じ人間の体温を感じる音楽ではあるのだけれども、曲数分だけの風景画―それはセルのように半透明な風景画で、それぞれが互いに重なり合ってあるイメージを生みだすように感じられた。そのころのわたしは、音楽に関しては専門的な判断力も知識も何も持っていなく、そしていまだにその稚拙な耳のままなのだけど、ただ自分の「耳に心地よいか」ということ、聴こえてくる音が「身体性をもつかどうか」で好みのレコードを選り分けていた。幼いわたしの心にグッと響いたのが、高木正勝の音楽だった。そのとき、彼がどのような人なのかというのはまるで知らなかった。「ノスタルジックでありながら瑞々しい」とよく評された彼の音楽と映像は、たしかにどこかで見たような風景を感じさせながらも、新鮮な驚きを呼び起こした。わたしは何度も繰り返し聴き、このCDは棚のお気に入りの場所に長く残った。その後、彼がわたしより年下の一九七九年生まれなのだと知った。

二〇〇四年にリリースされた『COIEDA』はCDとDVDの二枚組。発表当時も何度か再生し、それなりにお気に入りの作品にはなった。が、ごく個人的な事情(長く家を留守にしたり、部屋の音響機器が壊れてしまったり)でじっくりのんびり音楽に接する環境から離れてしまったこの一年半のあいだ、まったく聴く機会がなくなっていた。だからこの作品は、かつての『rehome』ほど繰り返し再生されることなく棚に納められてしまった。しかし実際のところは、そのときのわたしは、「ノスタルジックでありながら瑞々しい」音楽にすこし飽きてしまっていたのかもしれない。高木正勝はさまざまなアート誌やカルチャー雑誌で紹介され、その制作現場や使用機材が紹介されたりと、まるで時代の寵児かなにかというくらいの扱いになった。もちろんわたしが知る前も後も関係なく彼の作品は高い評価を得ていた。『rehome』のリリースの頃に一度浅草でライヴを観る機会があって、同じ頃どこかの美術館でもいくつかインスタレーションを観ることがあった(そのときはもうSILICOM名義ではなく"masakatsu takagi"名義だったようにおもう)。ただ『COIEDA』の後、この二年以上ものあいだ、テレビコマーシャルで彼の音楽が流れてきて耳にすることはあっても、意図的に彼の作品を選んで接することはなかった。だから、言うならば、身勝手なリスナーのあいまいな気分の問題だったのだとおもう。

ゆかいでにぎやかな深夜番組が終わった午前三時。まだ眠るには惜しくて、不意と何か心地よい映像を観ながら眠りたいと思った。そこで何の気なしに選んだのが『COIEDA』だった。DVDを流し観ながら眠りに付こうと思った、それだけだった。が、再生してみると、ふとんの中からじっと観入ってしまったのだ。四曲目の「private drawing」はその曲名通り、メロディが絵筆となりときに絵筆がメロディを先導しながらドローイングとぬり絵で映像が展開していく。描かれるのは人。フリーハンドのラインはときに力強い一本線であり、ときに複数の色が重なり合って面を作りながら、あるひとつの絵を描く。その絵はあくまで彼の個人的な体験、原風景だ。クレジットによると、「private drawing」のオリジナルはハンブルグで開催されたフェスティバルで上映され、この断片はヨーロッパ滞在中に泊まったいくつものホテルの部屋で描きためられたものだという。

テレビジョンからの光がいくつもの風景を照らし出していく。ドイツのハンブルグで見た海、スイスの田舎で追いかけっこをしていた子どもたち、幼いころのもうすでに失われていたと思っていた些細な記憶、ずっしりと重たい写真アルバムをめくる感覚、これから生まれてくるだろう子どもたちの水遊びを見守る母親になったかのような想像、雨上がりの道にできた水たまりに青空が映っているのをみつけて歓声を上げたあの娘の弾んだ声! 覚えている? 忘れてしまった? これからやってくるもの? 高木正勝がつむぎ出す音楽と映像は、時間と土地、事実と想像、鮮明さと曖昧さ、まるで時空が捻じ曲がったところで浮かび上がる純粋な憧憬。このなつかしい気分はいったいなんだ? おそらく多くの人が、彼の描いた風景画によって、こころの奥底に残していたごく個人的な記憶を引き出されるのだろう。発端は高木本人が自らの原風景を描いていたのに、アウトプットされた音楽と映像を通して、誰か別のひとの個人的風景を再生する。拡散するイメージ、汎用性をもったノスタルジー。はっきりと個を分け隔てながら、彼が描く風景は触媒のように誰かの感性に働きかける。遠くから投げられた石が、波紋を呼び起こして水面にそれぞれの記憶といつかの景色を映し出す。そんな奇跡のようなことを、彼が作るメロディはクールに実践してしまう。

数年前、わたしは彼の音楽に「三十五度くらい、低体温の快楽」という印象をもっていたのだけれども、久しぶりにその作品に接しながら「これは冬の晴れた日に、神社で手水を使ったときに指先から背中までしんとした冷たさが走るあの感じ」とひとり勝手に合点がいったのだった。映像は子どもたちが色の世界を駆け回る「primo」の終盤の美しいメロディに見送られて静かに終わった。いまさらながらわたしは興奮してなかな寝付けなくなってしまった。ほんとうにいまさらで恥ずかしいけれども、現在の高木正勝の映像と音楽をまた観てみたいとおもった。

高木正勝 http://www.takagimasakatsu.com/

COIEDA

COIEDA

rehome

rehome

セイル

セイル

(この文章は一月九日に消えてしまった部分を書き直した改訂版です)