『渋響』のなかに母心をみた

これは中ジャケ

わが家に渋さ知らズの新譜『渋響』がやってきた。昨秋、異例の多日程でレコーディング(メンバーが多いのでスケジュールの確保も難しかっただろうに)されたこのアルバムには、装い新たな曲ばかりが並んでいる。新曲、メンバーによってリアレンジされた曲、欧州旅のさなかにスイスで突然誕生したご機嫌なダンスチューンなど。そして演奏するメンバーの顔ぶれも、数年前のこのバンドを知るひとであればきっと「世代交代だねえ」などとしたり顔で物申したいだろう一枚だ。クレジットを眺めるだけでなく実際にこのアルバムを聴いて、そしていま現在の渋さ知らズの姿をライヴで観たならば、そんな言葉がナンセンスなものだと気づくことでしょう。

さてこの新譜、ステージで「五拍子」と呼ばれていた曲は「Fight on the corner」という新たな名をまといアルバムの冒頭で仁王立ちで出迎える。クリアな音質がそれぞれの楽器の役割をいっそう明確に伝えている一方で、ライヴで体感できる各演奏者の個性は音質云々を超えた次元であいかわらず際立っている。二曲目「鰤風」で早々に登場する辰巳光英さんのトランペットソロは聴いてすぐこのひととわかる前線ラッパだし、もう一方のトランペット北陽一郎さんのマジメなようで馬鹿げた音色はバスケットボールで言うリードガード、司令塔のポジションだ。ギターをかき鳴らす斉藤社長はいつでもヒーローだし、太田惠資さんのヴァイオリンは空間をグングンと広げて行く寛大さでシーンを支える。室舘彩さんの歌声が加わった新しい「犬姫」=「song for One」は、かつてこの曲が誕生した舞台、風煉ダンスのお芝居で唄われたときの記憶をのせて新たな顔を見せている。リズム隊の手数と引き出しの多さと愛嬌、ベースやボトンラインの理知的な低音、鍵盤の奔放さ。しばらくショーケース的なライヴが多かったように感じていたけれども、このアルバムはこれまでの「得意技の披露」とはまったくちがう。もちろん作り手の意図もあるだろうし、聴き手の感性もあるだろう、的外れな感想もあるだろう。実は、わたしはいまの渋さ知らズのなかに新しい母心のようなものがあると感じていたりする。ぬるま湯の水槽のなかに大量の熱湯を投入しようとして間違ってヤカンごと投げ入れてしまうような暴挙は健在ではあるのだけど。

昨日はこのレコ発ライヴでO-Eastへ。秋にFESとの対バンでこのステージで観たときよりも格段に演奏はおもしろかったし(あの日はおもしろくなかったとおもいます)、舞台上に吊り下げられていた巨大な布は世田谷パブリックシアターのときよりもなおいっそう音楽に馴染んでいた。そしてライヴドローイングと映像のアプローチに新技が出ていて、映像が背景画ではなく、映像を眺めながら音を聴くというあそび方ができたのも昨日のライヴが豊かだったひとつの要因かもしれないと、映像びいきのわたしはおもったのでした。

渋響

渋響