エミール・クストリッツアの戦争と人生

オールスターで散歩

実にひさしぶり、おそらく二年ぶりにレンタルビデオショップの棚を眺めていたわたしは、商品のラインナップと配置のあまりの変わりようにショックを受けていた。膨大な数の「新作」と「準新作」と「話題作」のDVDに囲まれ、記憶をさぐりながら店の中で迷子になっていた。映画ファンだなんて名乗るのが恥ずかしいほど、ここ二年間まったく新作映画を観られずにいた(だから帰国以降のこの一年は自分のことを映画ファンと名乗るのは恥ずかしくてやめていました)。もちろん二年間も旅をしていたわけではなく、旅をしていたのは正味半年、その前後は旅の仕事で落ち着かなかったのは事実ではあるけれど、帰国後のわたしの映画離れはほんとうにさみしいものだった。旅に出る直前には『アメリカの夜』を三日間で都合十二回も観るなんてことをやっていたし、海外とのメールのやりとりに追われて会社を辞めるドタバタの最中にも映画館には出かけていたのに、だ。「新しい生活に慣れるまで」「じっくりひとりで映画を観る機会に恵まれなくて」なあんてさまざまな言い訳をしているあいだに、見過ごしてしまっていた映画のなんと多いことか!

というわけで、ようやく「ミスハタリの映画を追う旅」を再開。エミール・クストリッツァライフ・イズ・ミラクル』(二〇〇四/フランス=セルビアモンテネグロ)を観ました。

今回の舞台は一九九二年のボスニアセルビアとの国境近くの田舎に暮らす鉄道技師ルカが主人公。ロバや犬や猫や鳥に囲まれたのん気な暮らしを送っていたルカには、ささやかな幸福(オーケストラでクラリネットを吹くのと、自作の鉄道模型を眺めること)と、ありがちな悩み(ヒステリックな妻の発作と、ヤンチャな息子の行く末)があった。しかし彼の平々凡々な暮らしが、内戦という「誰かの戦争」の大きな渦に巻き込まれてしまう。妻はよその男と逃げ、兵役に出た息子は捕虜になり、中年男ひとりの家は荒み、夜ごとの銃撃や爆発で眠りは妨げられる。「死んだ親父が言っていたよ、戦争は駆け足でやってきて突然家のドアをノックする」、そんな台詞がごく自然に出てくるように、かの地で戦火を生き抜いてきたエミール・クストリッツァの映画は戦争に近しい。まさしく激動の時代を描いた名作長篇『アンダーグラウンド』に限らず、その戦争との「近さ」は、ウンザ!ウンザ!とノースモーキングオーケストラが陽気に吹き鳴らした『SUPER 8』でも、今回の作品でも同じことだ。戦争が生活と同じレベルで映画のなかに共存している。

エミール・クストリッツアの映画では陽気でハッピーな空気が漂っていても、必ず画面のすみっこで、あるいは登場人物同士の聞き伝えのなかで幾人も死ぬ。あの宴気分の極致『黒猫白猫』にしたってそうだ。わたしたちがこの『ライフ・イズ・ミラクル』という映画の百五十分強の上映時間を終えたときには、冒頭で熊に殺されたおじいさんのことや、ヒロインの口から語られた銃撃で脳みそが飛び散った友人の話なんてもう忘れていることだろう。しかし残虐な事実は確実に残っている。エミール・クストリッツアの映画の強みはそこにある。『アンダーグラウンド』のラストシーン、あの美しくまばゆい光景に、決定的な言葉が乗せられたのを覚えている? 「むかし、あるところに国があった」。そのひとことで締められる映画なんてほかにあるだろうか?

今回の『ライフ・イズ・ミラクル』は冗長な描写が多いし、やけに説明的な前半戦にしびれを切らしそうになるけれど、さすがベテランの安定感が全体を支えている。ただ、個人と個人同士のドラマの運びがやや軽薄になるところ(避難所で急に産気づいた妊婦のお産をヒロインが助けるくだりとか)には、「芸風」に甘えてしまっていやしないかねえ、と毒づきたくなる気もちもあり。ただ、やはりその安定感と、絶望と希望の同居具合、そして主演俳優の「徹底した脇役っぽい味わい」は、『ライフ・イズ〜』とあまりに大風呂敷な冠をつけていても、よく似たタイトルの忌まわしいイタリアのクズ映画(とわたしはいまでも声を大にして言うね)とは大違いだったので安心した。あのロベルト・ベニーニ、ほんとうにダメなんだよなあ。ってこれはまた別のハナシになるのでまあいいや。

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この映画で奏でられる曲は、フレイレフ・ジャンボリーのライヴでも演奏されていました。リーダーの瀬戸さんはこの映画が好きなのだそうです。やっぱりルカがトランペットでもサックスでもなく、クラリネットを吹いていたということもあるのかしら。わたしとしては、主人公がクラリネットを吹いたときもうれしかったけれど、なにより「鉄道好き」なところにキュンときちゃったのよね。

ライフ・イズ・ミラクル [DVD]

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