井口奈己『人のセックスを笑うな』の「時間」

書きそこねていたのだけれども、実は三月二日の土曜日に、シネセゾン渋谷にて行なわれた「『人のセックスを笑うな』音楽の夕べ」にお招きいただき、ノコノコとあそびに行ってきました。HAKASE-SUNと武田カオリさんによる主題歌「ANGEL」、MariMariが唄う「いかれたBaby」など、サントラ収録ヴァージョンとはすこしちがうシンプルな編成でのライヴでした。その後、試写で二度観て以来、数ヶ月ぶりに映画本編を観たので、ようやくここですこしだけ文章を書きたいと思います。映画のあらすじなどはここでは省略、劇場で販売されている公式プログラム収録の「story」と「introduction」を読んでくださいね、ハタリが文章を書いています。
  
→『人のセックスを笑うな』プログラムのこと

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タイム・アフター・タイム――『人のセックスを笑うな』の時間

この映画では、時間は最初から最後まで一定に流れる。映画というつくりものの「物語」に流れる時間というのは、たとえば平穏なときはゆるやかに感じ、事件が起こると急加速し、クライマックスで静止し、雨水をせき止めたダムが決壊するように一気にあふれ出して物語のもろもろを押し流してしまうことがままある。それどころかたまに逆流したり、懐古主義的に過去を焼き直したり、過去と対話したりもする。それがフィクションである「物語」の強みでもあるのだけれども、この映画の場合は、時間は「物語」内で起こるさまざまな事件や些末な出来事とは無関係に、一定のスピードで流れていく。

主人公みるめ(松山ケンイチ)が謎めいた年上の女性ユリ(永作博美)に出会い、恋におちる。恋に出会う瞬間というのは手垢がついた陳腐な表現で言うならば「ジェットコースターの急降下」。いろいろな偶然を必然と信じて疑わず、自らが忙しい渦中にある主人公と思い込んでしまう。もちろんこの映画の中でもこの二人に加えてえんちゃん(蒼井優)や堂本(忍成修吾)ら、登場人物自身が感じる主観的な「時間」は緩急激しくグニャグニャと流れている。でも映画全体を貫く時間は最初のシーンから最後のシーンまで等しく流れている。この映画は時間をコントロールすることで演出をつけるということをしないのだ。現実と同じく、時間は加速することも止まることもなく、映画のなかの人間模様とは無関係に流れる。手出しはしない。「137分」という実際の上映時間よりも長く感じるのは(たとえば最近のハリウッド映画には二時間超などザラだ)、キャメラ長回しの多用による効果だけではなく、一定に貫かれた映画の時間感覚と、そのなかで生きている登場人物たちの主観的な時間感覚の両方を味わうことになるからではないか。

この映画でいえば、三人の青年(みるめ、えんちゃん、堂本)は、映画の時間の流れに対して自分の時間を作ろうと抵抗していることで、若さと青さと純粋さを描き出している。中でも、ユリがいなくなって失望するみるめに付きまとっては奮闘するえんちゃんの様子は、川の流れを逆流する産卵前の鮭のように果敢だ。映画の中でえんちゃんが投げやりに叫ぶ「人生には自分じゃどうしようもできないことがあるんだなって、思い知らされてるだけ」という台詞は単純な白旗宣言ではなく、自分たちに冷たいこの「映画の時間」に対する啖呵のひとつだ。学校の屋上で青空を見上げて、消えたユリを思い「会えなければ終わるなんて、そんなもんじゃないだろう」なんてこころのなかでつぶやくみるめ青年は、まだしばらくはぬるま湯で夢を見ているのかもしれない(ところで、あの、最後にわざわざ挿入される字幕「会えなければ終わるなんて、そんなもんじゃないだろう」は、ほんとうにこの映画に必要だったのかなあと疑問なのだけれど、このような「敢えて」の表現だと考えれば有効だったのかもしれない)。またユリが魅力的であるひとつはこの「映画の時間」をすり抜ける唯一の術を知った人物だからであり、中盤から登場する猪熊さん(あがた森魚)が達観して見えるのは、彼個人の時間が「映画の時間」と等しく設定されているからではないだろうか。

この映画の撮影現場での監督の口ぐせは「もっとフレッシュに」だったという。撮影前の役者に体操や整体を受けさせてからだの緊張を取りのぞくなんてこともやっていたらしい。事実、松山ケンイチは「自分自身まで出してしまった」と公言しているくらいで、どこかに、実際に彼らが暮らしている町が本当にあるのではないかという「自然さ」をまとった映画となった。役者たちに要求したこの「フレッシュさ」のかげには、作為的な緩急をつけて映画の時間をコントロールことを放棄するという方法で、「まるで自然なつくりもの=映画」を生み出そうとした、監督の意図が感じられるのだ。
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澄んだ冬の青空や枯れた木々がきれいで、アトリエや部屋の家具や雑貨に至る美術が心地よく、純粋に視覚的快楽やあこがれを強く感じます。女の子にやさしいようで、女の子にひどく残酷な、そんな映画だと思いました。こころのなかで居眠りしていた過去の恋の記憶に水を遣り、思い出話を掬い上げるわざにも長けているので、興奮した観客はついつい余計なことを語りたくなるものです。きっと監督はもういやになるくらいに、観たひとから恋の話を聞かされる羽目になったことだろうと思います。

【人のセックスを笑うな】