バイバイ、マイスティース

客席でライヴを観て、その場に居合わせて、観察し体感し想像できた気もちのよい終着駅。それは四ヶ月をすぎたいまになっても、四月十六日のことを思い出せばふと浮かびあがる感覚であり、そこからつづいてきている日々をふりかえってみても、まちがいない感覚だと思わせる。

この日記は、二〇一〇年四月十六日に大阪梅田Shangri-Laで行なわれたTHE MICETEETH.のラストライヴから、ゆうに四ヶ月以上が過ぎた七月になってようやく書いています。どうして長く書かずにいたのかという理由の半分以上は、わたしが「モハキハ」というお店を営業していくことにテイッパイだったという言い訳で占められるのですが、すぐに手をつけるのを戸惑わせるような気もちがずっと伴っていたという言い訳もひとつありました。その日に感じた「終着」が、ほんとうに、終着駅のホームのどん詰まりにある車止めが告げるような「終着」であるのか、それを見届けてからでないと書けないような気がしていたのです。

かつてTHE MICETEETH.というバンドがありました。

一九九九年の大阪で、十人ほどの男の子たちが集まって、幼稚なまでにまっすぐな熱情からマイスティースというバンドが誕生した。ヤンチャな心意気と、好きなものに対する頑固さと、洒落た感性と、泥臭い向上心で、いくつもの面倒や厄介ごとを乗り越え、たくさんの祝福を受けてきた。数多くのライヴ、数枚のレコードやCD、映像、バンドの物販物としては多すぎるほどのTシャツを生み出していった。二〇〇〇年代の半ばまでをあざやかに駆け抜け、いつのまにか尻すぼみになるかたちで休眠していった終盤。それから一年以上のだんまりを決めこんで、二〇〇九年四月に公式に解散(と、まるで歴史の証人のような書き方をしていますが、わたしがマイスティースを知ったのは解散発表直前の時期であり、すべて伝聞による情報で、知ったようなくちをきいているだけです。それはまったくもって、ベスト盤に書かれたメンバーによる長ったらしいライナーを読んで得た知識と、発信された視点はちがえども、似たようなものかもしれません)。

その後、今年一月に東京代官山のUNITにてタワーレコード30周年記念イベント内での「解散ライヴ」(→ ☆2010/01/10の日記 さよなら、ありがとう、いってきます 〜THE MICETEETHの「点と線」)という機会があった。「解散後の解散ライヴ」が許されるのなら、ホームグラウンドの大阪で幕を引かないわけにはいかない、という動きがおそらくあったのだろう。梅田のShangri-Laのフロアには、観客や関係者がたくさん集まっていた。

東京のライヴと明らかにちがっていたのは、どこかからりと乾いた明るい空気。観客の多くはおそらく三十代、バンドと同じ年ごろか、やや年上。マイスティースの音楽が自身の十年間と近しいところにあっただろう人たち。思い入れの強いファンなら「青春の終わり」とでも称しそうな「最後の日」であるのはまちがいないのに、センチメンタルとはほど遠い、果てを抜けたあとのようなすっきりとした明るさがフロアに満ちていた。卒業式をとっくに超えてしまった、むしろ同窓会のような様相。代官山UNITのときとはずいぶんとちがう。なんだかワクワクしている。みんな、なにを待っているのだろう。「終わらない時がつづく」ことではなく「終わることへの納得」。嘆き悲しみ引き止めるだけが終わりの儀式ではないということを、その場にいる人たちみんながわかっていた。それはフロアも、ステージも、楽屋もきっと同じ。その気もちよさが開演前からすでにあった。

ステージにメンバーが登場し、野次が飛び、協賛のサントリーが提供した「山崎10年」のボトルがフロアを渡りゆく。UNITでのライヴは、メンバーが集まってマイスティースとして演奏すること自体が一年以上ぶりだったこともあり、またフロアの期待と感傷に追い立てられ、ずいぶんと緊迫したオープニングだった。バンドが休眠していたための、当たり前の不自然さ。それこそが現実的な音であり、いままでの音源と聴き比べると、音楽とはナマモノであると感じさせておもしろい。その様子は『20100110』で聴くことができる。

20100110

20100110

それに比べて、大阪でのライヴはよい意味で客席とステージが共犯関係にあった。「もう終わっている」ということの強み。投げやりでも乱暴な遣り口でもなくて、それは事実にすぎない。かつて密な時間を過ごしていたメンバーは、今ではそれぞれに別の活動をしていて、もちろんところどころ重なっているバンドもあるけれども、住まいを別の町に移した人もいるという。毎日のように会って生活と音楽の境目もなく暮らしていた仲間が、いつしか会わなくなって、それぞれに別の場をみつけて、あるいはつくり出して、いくつもの日がすぎていた。それがこうして再会し、むかしのように音を重ねてみれば、思い出されるのはかつて慣れ親しんだ、気もちのよいフィット感。ただしそこには明らかな違和感が生まれてきている。それを無視するか、別れの合図ととるか。

1 Oldman Silence / 2 Guilty Boy / 3 Ohio Man / 4 Tomorrow more than words / 5 Sleep on Steps / 6 one small humming to big pining 夜明けの小舟 / 7 -ネモ- / 8 Salvia / 9 霧の中/ 10 ゴメンネベティ / 11 レモンの花が咲いていた / 12 THE SKY BALL / 13 あいのけもの / 14 春のあぶく / encore01-1 陽のひとひら / encore01-2 春の光 / encore02-1 Please, please take me down / encore02-2 ムーンリバー / encore02-3 トルキッシュコルト / encore02-4 Rainbow Town

この日のマイスティースはほんとうに気もちのよいバンドだった。アンコールでは、いわゆる「むかしのメンバー」がサプライズで登場。金澤くん、和田くん、森寺くん、藤井くん、次松くんに、サポートメンバーである武井さん、前田さん、寺田くんを加えた、後期マイスティースを築いた八名。そこに初期衝動をともにした吉田くん、村岡くん、佐々木くん、樋口くん、田淵くん、田中くんの六名が加わり、なんとも豪快で勢いのあるトルキッシュコルト。そしてRainbow Town。音はよれてむちゃくちゃだし、適量を超えたお酒でドラムはへろへろだし、次松くんはインスト部分で寝てしまって歌に入れなくなるし、誰もが笑っているし、幸福な歓声がステージを取り囲んでいる。こんな葬式なら、マイスティースの音楽は成仏できるでしょう。

わたしはこのバンドが実質活動していた時代を知らなく、あいまいな休眠状態にやきもきし、そして解散後に突如として種明かしのように語りだした『20100110』『WAS』のやり方に、実はすこし首をかしげていたのだけれども、この日の「終わり」は実にすっきりとしたもので、その場に居合わせた多くのひとと同じように、ひとつの「終わり」のあり方を、観察し体感し想像できた。

その後、気もちのよい打上げがつづき、たくさんのお酒をのみ、いくつかの写真を撮ったけれど、たいていはひとに見せられる写真ではなかった。そして目が覚めると朝だった。雨は夜のうちに上がり、春の日差しに照らされた台所で、新しいコーヒーをいれた。おはよう、おつかれさま、いってらっしゃい、たのしみにしています、なにを、なにかを、なんでしょう。


その後の四ヶ月、友人のライヴや生活の場で、メンバー同士が顔をあわせるシーンは当然あって、センチメンタルな意味ではなくただの現実として、途切れなく日日がつづいていることを感じさせます。

http://themiceteeth.com/

そのうちのひとり、和田拓くんはどうするのかなと思っていたら、ある日のこと、わたしが夕ごはんの餃子を包んで焼くのに夢中になっているあいだに、とつぜんブログを立ち上げていました。マイスティース終盤には「ウリチパン郡」のサポート、解散後は「道路」というゆるやかなバンドで演奏したり、ピアノ弾き語りのmomoさんと長崎県五島列島にある無人島の教会で演奏をしたりしていた彼は、七月にソロ名義でのはじめてのライヴを行ないました。これからバンドを組むことも考えているだろうし、ラヴァーズやスカのレコードをかけるDJとしての活動もつづけていくでしょう。そしてなにより「一音楽人」としての心意気に満ちています。

http://d.hatena.ne.jp/hiluckbasss/


「終着駅は始発駅」、宮脇俊三さんの著作名ですが、まさにそのとおりのライヴでした。