六甲山から有馬、岩と山のノスタルジー

子どものころの話。

わたしの父親は山親爺で、週末が近づくとそわそわしはじめて、金曜日の仕事が終わると屋根裏の物置や車庫の奥からは、釣竿やら、魚市場で見かけるような防水のゴムつなぎ(胴から長靴までつながっているやつ)やら、テントやら、いかつい靴やら、ときにはカヌーまで登場させたものでした。時計が午前にまわるころに山仲間が迎えにきました。春は山菜、夏は高山草花や川魚、秋はきのこなど、山の恵みや実りを手みやげに、日曜の夜になると父は家に帰ってきたものでした。北海道の春から秋という短いあいだに、父は週末になるとよく山へ出かけていました。一度だけ、食後に茶の間でテレビを見ていたわたしにこっそりと、チラシの裏に鉛筆で地図を描きながら(ほとんど森だったけれど)、「ここが山小屋ね、このあたりには道はないけど、送電線の下は電力会社の人が草を刈っているから歩けるの。月曜の朝になっても帰ってこなかったらここの人に電話して今の話を伝えといて。ただしこのことは母さんに言っちゃだめよ、心配するから」と言ったことがありました。その週末ばかりはひとりドキドキして過ごしたけれども、父は日曜の夜に何事もなく帰ってきて、蕗だったか山女魚だったかアメマスだったからくようだったか、何かしらの食べられる山の幸をたくさん台所に届けたのでした。

もちろん父が家族を山登りやキャンプに誘うこともありました。誘い自体は多々あったのに、実際にいっしょに出かけたのはそれに比べると実に少ないものでした。わたしはたしか二度か三度、蝦夷富士と呼ばれている羊蹄山に登り、然別湖でテントを張り、そのほか小さな山にすこしだけ登りました。小学校でミニバスケットボール、中学校でバスケットボール部に入ったわたしはチームの練習や試合を理由に、あまり山に付き合わなかったなあと、いまになって、もったいない気分になるのです。

と、いうことを、六甲山を登りながら思い出しました。

ロックガーデンという名のとおりに、岩だらけ。

とちゅうにはすこしだけ水辺もありました。

いまのわたしは町歩きは好きだけど、山まではずっと遠くて、ようやく買ったのは水をはじく上等な靴(とはいえソフトなつくりで、山登りも町歩きも兼用できる程度のもの)くらいで、カラフルな上着も中途半端な丈の半ズボンも、大きなリュックも持っていません。阪急芦屋川の駅からトコトコ歩いて登山口まで行けるような、気軽な山でありながら、いざ登ってみると、六甲山はなかなかに厳しい顔で心身をいじめてきます。わたしはすっかり運動不足の自分の身体を励ましながらも、ときによそ見をして、今度は北海道で山に登りたいな、できることなら父と、でも山での父はあまりやさしくないから、ちゃんと鍛えてからでないと置いておかれるだろうなあ、なんて思っていたのでした。

六甲山最高峰は標高九三一メートル。なんとなく「高尾山と同じくらいかな」と思っていて、実際に登ってみたら高尾山よりも三百メートル以上も高かったのでおどろきました。無知とは怖いものです。

有馬へと抜ける道はわりとつまらなく、さっさと下山。有馬温泉の濁って熱い金泉に浸かり、疲労と湯上がりで火照った身体に流し込んだ生ビールのおいしいことといったら。この感覚も今なら父と共有できる気がするのです。