キングス&クイーン 人生のはてな

クイーンも大変

ルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』(2004/仏)を観た。デプレシャンの映画はいけすかない。個人的嗜好といわれればそうかもしれないけれど、いわゆる「フランス人」のダサいところ(先入観たっぷり)が得意げに披露されている初期映画にどうにも辟易したからだ。それでも、やっぱりずっと気にはなっており、公開から二年が過ぎてようやく観た次第。

パリの街並み、「ムーン・リヴァー」をバックグラウンドミュージックに女性のモノローグ。「いろいろあったけど、そうね、いまは幸せね」と悠然と語るノラ・コトレル(エマニュエル・ドゥヴォス)は、画廊を経営する三十歳台半ばの女性。数週間後に三度目の結婚を控えている。事業の成功、裕福な新しい恋人、都会での生活。田舎で暮らす父親の誕生日に帰省したところから「ドラマ」が始まる。父に預けていた男の子は、最初の夫との間にできた息子。出産前に夫は事故で死んだ。妊娠、夫の死、出産、二人目の夫との出会い、別れ。そのうちに十年が過ぎていた。

この映画は「人生はドラマだ」と主張する。

誕生日を迎えた父はここ数日間体調が悪いと訴える。老いた父は迫り来る死を怖れ、娘にすがりついて泣く。ノラは父の看病に疲れて病院のベンチでうたた寝をし、昔の恋人のまぼろしを見る。「あなたが死んでから、わたし、ひとりで戦ったわ、生まれてくる子をあなたの姓にするために、役所で何度もやりあったの」。しかし画面に映しだされる景色、美しいエピソードは薄皮の一枚でしかない。ミルフィーユケーキにフォークを入れたとき、幾重のパイとクリームがバリバリと崩れ、均衡が崩れ出す。そこから真のドラマが始まるのだとこの「映画」は説く。

忙しないキャメラワーク、過度な表情の役者(デプレシャン映画の常連役者たち)、センスを疑う選曲(主役が切り替わるごとに曲調を変えるという発想は何億年前の発見かしら)。デプレシャンの初期作品『そして僕は恋をする』を観たときに感じたのと同じ嫌気が相変わらず滞留していた。ただひとつ、はっとさせられる美しさがあったのは、キャメラが窓をとらえたとき。父の家で、精神病院で、父親が暮らす寂しい家で、大きな窓から光が差し込む様子を映し出した瞬間、その絵は静止画では表わし出せないほどの静けさに満ちていた。物言わぬものがもっとも饒舌だ。

スリルを狙って張られた伏線の数々。観客がどのキャラクターに感情移入するか、それによってこの映画の捕らえ方は多様なものになるだろう。四人の男たちと一人の女、すべてキャッチーな言動ばかり。ただ、この映画を「映画」として観ようとした客は、映画そのものの焦点が定まらないがゆえの漠然とした不安とともに、百五十分もの長い時間を付き合うほかない。ひとつの映画として観たとき、これはデプレシャン初期作品と同じような駄作ではないかと思う(その点、前作『エスター・カーン』は純粋にひとつの「」映画として面白いものだったのだけど)。

終盤、大人の男と子供の男の子が博物館で話をする。ノラの二人目の夫と、七年間を一緒に暮らして彼になついていた息子が久しぶりに再会するシーンだ。大人の男が喋りつづける言葉はなかなか魅力的だ。が、しかしこの映画はしょせん男のものではない、ひとりの女のものなのだ。デプレシャンが最初にそう定義をしたところが、この映画の不幸の始まりだったのではないかと、洒落たパリの街並みと起伏だらけの人生を語る主人公の正面ショットを最後に眺めながら、いまいち煮え切らない気分で観終えたのでした。

キングス&クイーン [DVD]

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