大阪の冬と「えべっさん」

一月は晴れた日ばかりつづく。

大阪では東京よりも「北海道出身」というのがすこし珍しいみたいで、わたしの服装を見るたびに人は「さすが北国生まれはちがう」と言ってくれるけれど、薄着なのは自分のからだの代謝を怠けさせないためだけのハナシ。大阪の冬だってとうぜん寒い。乾いた北風は風景から水分を奪っていき、日陰に入れば驚くほどしんと冷えている。わたしはこちらの冬のことを、内心「情け容赦ない寒さだ」と思っている。なんというか、晦日一杯のかけそばを分け合うことになった顛末がわかるというか、扉や窓のすきまから不躾に家の中まで入りこんできて生活を責めるような、人情に薄いものとでも言おうか。雪国では、もちろん大雪は暮らしの幅を制限するし、連日の重たいくもり空は鬱屈とした気もちにさせるに十分だったりもする。しかし雪国(の都市部)では寒さはそれほど冷たいものではなかったように思う。それはわたしが雪国で暮らしていたのは子どものころで、今よりも体温も高く、頑丈で、あたたかい家と親や家族に守られていたからかもしれない。

と、そんなふうに言うと、大阪の冬がきらいなように思われるけれども、わたしは孤独ではないし、こちらの冬は「人情味の薄さ」に自覚的なのかどうか(いや、それは他所ものの勝手な見方だというのはわかっています)、「十日えびす」のように、にぎやかな催しがあって楽しい。

昨年の今ごろは大阪に移ってきたばかりで、「えべっさん」ということばを聞いたのもはじめてで、「東京で言う酉の市みたいなものかな」と想像していた。昨年は家人のライヴで東京に行っていたこともあって出かけられず、「笹持って商売繁盛祈願」と聞いてもいまいちピンと来ずにいた。

その後にモハキハも開店し今年は「モハキハ店主」としても、もちろん物書き稼業のハタリブックスとしても、今年一年の無事と商売繁盛を願うために、張りきって今宮戎神社へ。

難波のえべっさんは想像していた以上の大騒ぎで、みんな前のめり気味。さすが商人の国だけあるにぎやかさ。大混雑のなかで笹を受け取り、福娘のお嬢さんに御札や吉兆を付けてもらって大満足。さぁさ、えべっさん、今年一年どうぞよろしくお願いします。

情け容赦ない冷たい風を浴びながらも、わいわいと福を呼び込もうとしている境内や参道を歩きながら、大阪の冬に自分がなじみつつあることを感じた。大阪の町がもつエネルギーのようなものは、良くも悪くも欲望に正直なところに根ざしているように感じる。そんな俗世的なにぎわいがきらいじゃないってこと、実はすこし前から気づいている。