北東北&北海道 冬のより道 2 ノスタルジック山田線

前に訪れたことのある場所というのは、えてして感傷的な気分になりがちだ。盛岡から宮古へとのびるローカル線の山田線に乗るのは十年ぶりのこと。

盛岡駅で新幹線を降りて在来線のホームへと移る。盛岡駅の様子はあいまいな記憶とはやっぱり相当ちがっていた。とはいえ、前に来たのはいつだったか、たしか駅前で盛岡冷麺を食べてじゃじゃ麺をみやげに買って帰ったから、二〇〇三年あたりのはずだ。その前は、大学二年の夏。

大学時代のわたしは、学校に友だちがほとんどいなかった。農村のまんなかにポンと建てられた大学の異様な風土がきらいだった。そしてその人造的な学園都市めがけて全国から集まってきていた、そこそこに優秀で垢抜けずポリシーもない大半の学生のことがきらいだった(つまりわたしもそういう学生だったというわけだ)。わたしが好きだったのは、毎日稽古をする空手道場と汗臭く暑苦しい空手仲間たち、週末に渋滞に遭いながら三時間もかけて高速バスでたどりつく東京の町、リバイバル盛んな渋谷や六本木の映画館、はじめてのひとり暮らしの部屋、台所とベッド、コンパクトカメラ、古着、ビデオデッキで再生する映画たち、いくつかの本とレコード、好きだった男の子、ほとんどひとりで過ごす時間。唯一あの学園都市で好んだのはどこまでも広い青空だけだった。そんな理由で、大学生のくせにわたしには学部内に友だちがいなかった。きらい、というか、めんどうくさかった。地味なひとが群れてにぎやかになる光景に交わるくらいなら、ひとりでいるほうが気楽だった。そんなわたしのことを「ここに未練も思い入れもないひと」とクラスメイトは言った。そのとおりだった。いまとなっては若くて青い抵抗だと苦笑いしてしまうけれど、しかたがない。たいてい、わたしは金曜日の夜にバスで町を抜け出ると、月曜まで家に帰らなかった。授業単位は最低限をキープし、興味がもてる講義しか選ばず、専攻以外の自由科目は芸術学部の授業を優先して受けていた。勉強がきらいなわけではなくむしろ好きだったし、面白い先生にも出会えた。傍から見れば不良学生だったかもしれないけれど、実は成績だってよかった。ただ、学校に居場所を求めて群れるのが苦手だっただけだ。

専攻は文化人類学。同じ専攻の子たちとあいさつは交わしても、一緒になって仲良くすることはなかった。授業の合間にはいつもひとりで本を読んでいた。その夏のフィールドワーク合宿が岩手県の田老という漁村に決まったときに、みんなは待ち合わせてバスで行くだの盛岡まで新幹線で行くだの車を出そうだのと盛り上がっていたけれど、わたしはとうぜんひとりで時刻表を調べて、ひとりで列車に乗った。たいして仲良くもない子たちとおしゃべりをして数時間を過ごすということが、あのときのわたしにはできなかった。だからひとりで東北新幹線に乗った。盛岡駅の山田線ホームには二両編成の列車が停まっていて、新幹線のホームから移るあいだにも何人か顔見知りの子たちを見かけたけれど、わたしは知らないふりをしてひとりで座った。

古い車両だった。車両の先のほうで女の子たちのにぎやかな声がする。駅弁を買ったとかどうとか。わたしは本を読んでいた。列車が動き出す。しばらくすると誰かがわたしの向かいの席に座った。顔を上げると浅田さんがいた。浅田さんは小柄でオシャレで目がクリクリっとした愛嬌のある美人で、すこしふしぎな雰囲気をもつ女の子だった。「窓、開けていい?」。わたしはうんと答えて片側を支えて窓を押し上げた。「なに読んでるの?」「ん、小説」「むずしい本?」「ぜんぜん」「浅利さん、いつもなにか読んでるよね」「うん」「ふーん」。浅田さんはすこしだけしゃべるとあとは黙り、椅子に斜めに座って窓の外を眺めていた。切り揃えられた黒い前髪。九州の生まれだという。彼女は、北海道育ちのわたしがはじめて出会った九州の友人になるのかもしれない。真夏の陽射しが彼女の顔を照らしていた。わたしは学校で、彼女のことだけはちょっと気になっていた。なにか、わたしが知らないことを知っているような気がしていたのだ。「あついね」「うん」「まぶしいね」「うん」「その本、おもしろい?」「まあまあ」。そのとき列車はトンネルに入った。ブンッと空気を切る音がして、細く開けていた窓のすき間から急に風が吹き込み、浅田さんの前髪を乱していった。のんびり走っていたとばかりおもっていた列車が、じつはかなりのスピードを出していたことを知った。あんなに暑かった車内がきゅうに涼しくなる。暗くなったので本も置き、浅田さんを見た。おもしろいひとかもしれないなと思った。十数秒だったのか分が過ぎたのかわからないけれど、トンネルを抜けるとまた車内は急に真夏の正午に戻った。明るくなった車内を歩いてきたクラスメイトがこちらに気づき、「あ、浅田さんと浅利さん、同じ列車だったんだー!」と大きな声を出した。そして彼女は浅田さんのとなりに座ったので、浅田さんは相手をして話を合わせ出した。ああ、うっとうしいなあ、とわたしはこころのなかでおもい、緑の木々が降り注ぐように迫ってくる車窓を眺めていた。

それから田老町での二泊三日の合宿で、わたしはみんなと一緒に日の出を見に海に行く程度にはこころを開き、かといって、彼らはもちろんのこと浅田さんとも唯一無二の深い友情を築きあげることもなく(なぜか一度、彼女がうちに遊びにきて、ふたりで鍋をつついたことはあったけれど)、わたしは東京に抜け出るか家で眠りつづけるかという学生時代をあの町で過ごした。そして大学四年でほとんど町に帰らなくなったわたしが卒論の口頭試問以来、卒業式の日に三ヶ月ぶりに学校に行ったときに袴姿の浅田さんに会ったけれど、彼女は「実家に帰るとおもう」と言い、わたしは東京で働くと答え、連絡先も交換せずに別れたきりなので、今までもこの先もたぶん彼女に二度と会うことはないだろう。でもいまだに、21歳の夏休み、眠りと抵抗に満ちた青い夏の日日を思い起こすたびに鮮明に浮かび上がるシーンのひとつが、浅田さんとわたしを乗せた山間の単線、山田線のことなのだ。

山田線は、盛岡駅から三陸海岸近くの宮古駅までを結ぶ地方交通線だ。すこしさみしい佇まいの盛岡駅ホームに停まっていたのは、宮古駅行きの二両編成「快速リアス」、11:04発。キハ111&112系のユニット編成。セミクロスシートの味気ない車内には一見してマニアとわかる旅人と地元への帰省客とが乗り込んで、思いのほか混んでいた。

車両自体はひじょうに無骨。軽薄な要素がどこにもない、つまり飾りも色気もない、ちょっと冴えないディーゼルカー。山の傾斜や雪に耐えうるストイシズム。北国の列車らしく窓は二重構造。しかし列車の雰囲気は十年前の記憶とはほど遠く、車内のどこを見渡してもあのころの浅田さんもわたしもいなかった。まあ、すべてのローカル線が大糸線のようにレトロかわいい車両を使いつづけるわけにもいかないし、この路線と走行距離で二両編成というのは妥当だとも思うし、そもそも鉄道は、個人の思い入れとは無関係なものだ。たいてい、乗客が勝手なストーリーを押しつけて満足するだけなのだから、べつに山田線が量産型のキハであってもわたしはめげない。

宮古までの山田線はひたすらに単線で、とちゅう、茂市駅で分岐するもその先は盲腸線(行き止まり)として名高い岩泉線。盛岡郊外といった住宅地を抜けて二、三駅走ると、景色は白く染まる山となる。列車は単線のうえを意外にもスピードを出して走っていく。トンネルがつづく。盛岡を出て五駅目、浅岸駅近くのトンネルを抜けたとき、視界がきゅうに開けて空が白くなった。遠くの山を望む。車内の暖房は暑いくらいで長旅になる乗客はみん上着を脱いでしまった。窓が白く曇る。立派なキャメラを抱えた鉄道マニアがセーターの袖で窓ガラスを拭いてレンズを近づける。次々と連なるトンネルの長さが徐々に長くなってくる。山深くなってきたのだ。ふと、浅田さんがわたしの前にいたあのトンネルはこのどれかだろうかと思い出す。わかるはずがない。列車はピーッと笛を鳴らしてまた暗闇に潜る。区界、松草、平津戸、川内、箱石と、ポツポツと駅が近づくたびに減速し、駅間は思っていたよりも豪快に走り抜ける。盛岡から宮古へ半ばをすぎただろうか、陸中川井を過ぎたあたりで雪がすっかり少なくなった。地面が見え、山肌も茶色い顔をさらしている。12:46茂市駅着。唯一の乗り換え先の岩泉線、次の列車は15:40発。車内アナウンスが、鉄道ファンに向けて、軽々しく降りないでねと言っているように聞こえる。茂市駅と終点岩泉駅を結ぶ岩泉線は一日に三往復しかないのだ。乗りたいけれど難易度が高い。

茂市を出たあとはさほど見どころもなく、列車は窓を曇らせたまま宮古駅に着いた。釜石へと向かう山田線を降りると、十年ぶりの宮古駅。なつかしく思おうにもかんじんの記憶がまったくなかった。数分後に出発する三陸鉄道の乗り場へ走りながら、わたしはとうぜんのことに気づく。センチメンタルな旅なんて、記憶と無関係な思い込みにすぎないと。

山田線はわたしの記憶とは無関係に、この土地に生きていた。それだけでじゅうぶん。だってわたしはただの旅人にすぎないのだから。期待を裏切られたところで、彼に責任はない。だから、今度は真夏にまた来よう、窓ガラスが曇らないで、車窓に覆いかぶさる木々が濃い緑色をしている夏に。


【北東北&北海道 冬のより道 2009/01/01-02】
1 正月パスと東北新幹線 2 ノスタルジック山田線 3 三陸鉄道、潮風と晴天 4 うみねこ八戸線、津軽海峡の夜 5 函館/ロワジールホテル函館 6 冬の道央から函館本線山線へ