htr2005-12-10

ゴダールの『アワーミュージック』、もう一度観ようと思ったその日は東京上映最終日だった。なんてこったい! じゃあ他の町で観たらいいじゃないか、と、新幹線に乗って名古屋シネマテークへ。名古屋のシネアストたちの巣窟は東京のどこか知っている場所とはまったくちがう磁場だった。東京以外の町、わたしはほかに札幌くらいしか知らないけれど、東京ではない町にある先鋭的な映画館やライヴハウスやお店には「ここに自分がある」という自信が姿勢を正して立っているようでドキドキする。東京の情報量に比べたらいろいろと不自由もあるだろうけれど、その町その場で求められているものを発信していくお店に足を踏み入れると、ちゃんとせえよと追い立てられているようでドキドキするし、勇気づけられもする。わたしは東京もすきだけど地方都市もだいすきだ。

やはり二度目もふくざつな心もちで映画館を出た。この爽快感はなんだろう。地下鉄のなかでぼうっと考える。赤い鞄の少女オルガはこの絶望的なシーンをひとりで駆け抜け、最後にある着地をきめるのだけど、それがたとえひとつの悲劇だったとしても、最後まで「諦念」がない。ゴダールのやさしいまなざしはそこにあるのではないかな。地下鉄に揺られていくつもの駅を過ぎる。わたしは知らない町で迷子になっているのに、かえり道を知っているような気になっている。

「私が願うのは、自分を犠牲にするときに、自分と行動をともにしてくれる誰かがそこにいてくれることです。でも、映画を見てもわかるとおり、おそらく最後の時には誰も一緒にはいてくれないだろう、というのが私の推測なのですが。」(『アワーミュージック』パンフレットに採録されたゴダールの発言より)

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名古屋ではもうひとつ、「鬼頭 哲ブラスバンド」のライヴを観た。サックストランペットトロンボーンチューバクラリネットフルートにユーフォニウムやアルトホルンなどの「吹奏楽」楽器が並ぶビッグバンドだ。なにかの音楽をほかのなにかにたとえるほどナンセンスなこともないけれど、はじめて鬼頭さんの音楽を聴いたときに感じたのは「映画音楽がすきなひとだろうな」という印象で、それが正しいかどうかは知らない。ペイネのアニメーション映画『愛の世界旅行』だとか『80日間世界一周』のいかしたエンディング(ソウルバス)とか『ハタリ!』でかわいいおねえちゃんが小象を連れて闊歩するシーンとか、冒険の映画にはキュートな冒険の音楽がある。モリコーネヴィクター・ヤングヘンリー・マンシーニとかそんな、冒険に似た気分をかんじさせる音楽。音が好きなひとと音楽が好きなひとがいて、そのどちらもそれぞれ面白いとおもうのだけど、鬼頭さんの場合は「メロディ」がすきなひとの(わりと無邪気な)音楽だ。夢ばかりみているひとに夢は描けないし、ファンクネスを知らないポップスは信用ならない。多少の腹黒さがないと無垢はただ手に余るものだし、ただ音を鳴らすだけでは音楽なんてやってこない。鬼頭さんの音楽、それは鬼頭さんが作る音楽自体とブラスバンドで演奏された音楽を単純にイコールで結んでよいものだとは正直いまは思わないけれど、この次にできる曲はどんな姿をしていてそれがどう演奏されるのかたのしみに待とうとおもう。

鬼頭 哲 ブラスバンド http://www.kito-akira.com/brassband