ミスハタリの秋田旅 6 山荘「駒ヶ岳温泉」

ねえ、知ってる? 世界は、いくつもの瞬間が重なってできているってこと。ある時間、たとえば二〇〇八年四月二十日の十二時二十二分で切り取ってみよう。それは具だくさんの巻き寿司の断面みたいなもの。東京に暮らす娘が「男鹿なまはげライン」から秋田駅のホームに降り立ったちょうどそのとき、津軽海峡上空を飛んできた母親を乗せたバスが秋田駅前に到着する。そのとき、明け方のパリでは恋人たちが寝言とともに愛を交わし、プエルトリコのナイトクラブではグラマーな娘が男たちを魅了する。台北永康街では開店まもなく「鼎泰豊」に行列ができ、北極圏アルハンゲリスクの湖は凍り吐く息は白い。生まれたての子犬に名前が与えられ、山桜のつぼみが人知れずポッと開き、泥棒が百八回目の盗みを躊躇したちょうどそのとき、母娘の秋田旅行がはじまった。なんて谷川俊太郎ぶってみたけれど、母とわたしの時間がうまく合うことは、時刻表を見ればすぐわかることなのだ。

まずは稲庭うどん秋田駅から近い西武百貨店の地下にある「佐藤養助商店」へ。便利な立地、そして有名店ながら味も良し、ママハタリも比内地鶏つけ麺にご満悦。実は前日の昼どきもわたしはここで稲庭うどんを食べた。かために茹で上げられて冷水でシャキッとしめられた細いうどんは、つややかに光っていてとてもきれい。うどんの本場、稲庭町まで行く時間がなければここで食べればいいじゃない!
【佐藤養助商店 秋田店】 秋田県秋田市中通2-6-1 秋田西武地階 電話:018-834-1720

おしゃべりをしながら新幹線「こまち」で田沢湖駅へ。数年前にひとりで訪れたときから、田沢湖駅は大きく変わっていた。新しい駅舎、新たに整備された駅前。案内板には英語表記まである。さすが世界一有名な秘湯、乳頭温泉郷の玄関口。記憶はこうして上書きされていく。前に訪れたことのある場所にまたやって来るとき、そこがかつての風景と変わっていても変わっていなくても、どちらでもそれなりにたのしい。

 

田沢湖駅から乳頭温泉郷行きのバスに乗る。しばらく走ると田沢湖が見え、運転席の窓ガラス越しに青い水と空が広がった。午後三時の陽射しはまだ思いのほかまぶしい。母が喜ぶとわたしもうれしい。田沢湖畔で乗客を下ろしたり乗せたりしてから、バスは山道を登っていく。白い駒ヶ岳がとてもきれいだ。心のなかで旅の神様に感謝しながら、自分のツアコンぶりを自画自賛。標高がしだいに高くなっていき、湖畔では三分咲きほどだった桜も、かたい蕾だけになった。周囲の山がどんどん近くなる。乳頭温泉郷よりかなり手前、水沢温泉郷へと向かう分かれ道のバス停でハタリ母娘だけが下車。バス代も乳頭温泉郷行きの半分くらいですんだ。反対車線に宿からの迎えの車が停まっていて、甚平姿の青年が手を振ってくれた。乗り込んで、桜の話をする。「今年はいつもより早いみたいですよ。昨日今日が夏のようにあたたかいから、明日明後日には、湖や角館あたりで満開になるんじゃないでしょうか」という言葉、すばらしタイミングにうかれ気分。車は細い山道を入り、木漏れ陽をあびながら林を走り、数分でぱっと視界が開けた。近くからせせらぎが聞こえる。「すぐそこに滝があるんです」。本日の宿「駒ヶ岳温泉(旧山荘ももしろ)」に到着。

駒ヶ岳温泉は、水沢温泉郷の手前、秋田駒ヶ岳の中腹から沸き出る源泉を引いている一軒宿。その日はハタリ母娘を含めて三組が宿泊。さっそく部屋(洋間)に案内していただくと、とにかく広い! 空手の型演舞をしたとしても(しないけど)まだ余りあるスペース! 部屋が広いのでストーブも三台あるのだ! ベッドのあつらえも心地よく、借景は渓流と林。遠くには白い姿の山並みが見渡せる。鳥が鳴いている。

さっそく浴衣に着替えて内湯へ。もとは築年数が経っている山荘なのだろうけれど、部屋同様に新たに改装されたり整備され、こころ配りができているのでひじょうに快適。あれっ、お湯が透明だなと思いながら湯に入ると、底から真っ白いものがふわっと広がった。手足をばたつかせると湯は真っ白に。湯舟のはじまでいくと、隅に湯の花がたまっていて肌にさわるとやわらかい。ああ、やや熱めのお湯がからだにしみわたる。熱すぎて入られなくなると加水するらしいけれど、もちろん加温も循環もしていない源泉そのものだという。母娘で内湯を貸しきりにして、ゆったりとお湯に浸かる。うわあ、この温泉は正解! 正解! 正解! けっきょくこのお風呂には都合三回入った。そのたびに、東京や札幌で凝りかたまっていたアレコレがときほぐされていく喜びをかんじた。こんなすばらしいお湯、なかなかないよ。

 

その後、渓流沿いに建つ小屋、鍵をかけられる露天風呂にも入る。渓流の向こう側にあるのは森。露天風呂のある小屋は新しい白木造りでとてもきれい。ハードな山親爺であるパパハタリに連れられていく北海道の秘湯とはまたちがう、素朴でありながらも女性にやさしい設計の露天風呂にゆったりした様子のママハタリ。

お風呂あがりに体操をしてから、夕飯は食事どころ「そば五郎」にて。山菜、野菜、川魚などを中心に、素朴ながらこころこもった献立。どれもおいしい。しめは十割そばと自家製ゆずシャーベット。給仕も丁寧で、ひとつひとつ説明してくれるのもうれしい。はじめて食べた「みず」という名の山菜、その煮びたしが特においしかった。いも鍋の味もやさしい。

 
 

午後八時、宿のマイクロバス送迎で乳頭温泉郷の「鶴の湯」へ。すっかり暗くなった山道を登り、鶴の湯入口という看板を曲がるとその先はいっさい灯りのない自然の暗闇、けもの道。麓では桜が咲きはじめているというのに、ここには我がもの顔でまだ雪が残っている。途中、別館「山の宿」でも三組を乗せて、マイクロバスはさらに奥の奥へ。窓に接した腕が冷えてくる。暗闇にボワッと光が浮き上がり、鶴の湯に到着。前回のひとり旅では、湯治客向けの黒湯温泉(ここも山奥)に二泊したので、鶴の湯には寄らなかった。うわさに聞いていた鶴の湯は、どうだと言わんばかりの風格だった。

 

まず敷地が広い。入ってすぐ、「本陣」と呼ばれる長屋風の木造の部屋が連なる。ほかにいくつも宿泊棟があるけれど、本陣がもっとも人気があって、なかなかに予約が難しいみたい(実は、最初は鶴の湯に泊まるつもりだったのだけれども、本陣が空いていないこともあって変えた)。人気の鶴の湯、宿泊客のみならず、日帰り入浴の人々でも込み合うらしいのだけど、一般日帰りは夕暮れまでで、夜の時間帯は宿泊客専用となる。そこに、姉妹宿の特権でおじゃまできるのだ。夜の鶴の湯はライトアップされたテーマパークのようだった。泉質のちがうお風呂がいくつもあり、湯めぐりをするのもたのしい。女湯の露天風呂はまるでプールのように広く、ランプのほのかなあかりのなかでぷかぷかと浮かんでいた。晴れた夜空、星がとてもきれいだ。鶴の湯には泊まらなくてもいいかな、と思ったけれど、ここのお風呂にも入られたのはイベントとしてとても楽しかった。鶴の湯への行きかえりのドライブも含めて面白かった。駒ヶ岳温泉の高いホスピタリティを享受しながら、鶴の湯という秘湯イベントをつまみ喰いできるというお楽しみ。これもまた、旅の神様の思し召しなのだ。

ぐっすり眠った翌朝の散策。宿のそばには「友情の滝」という二連滝がある。近くまで歩いていくと水しぶきが頬にあたった。朝の散歩は気もちがいい。

いろんな瞬間が重なることで世界ができているのと同じく、またさまざまな風景で世界はできあがっている。ひとりの人間が一生涯で見ることができるシーンには限りがある。その有限はけっして悲しいことではなく、どの景色を見たかが個性になっていくのではないかと、逆に無限の可能性のようなものをかんじる。わたしたちは、いまここにある景色を見て、ここに立ちがある風を胸いっぱいに吸い込む。それはとても穏やかで明るい体験だった。そこにある世界を胸いっぱいに吸い込む、その呼吸こそが「旅」なのだ。だから、どこどこを訪れたということは二の次だといつも思っているのだけれど、この駒ヶ岳温泉はちょっとえこひいきしたくなる、そんな風景だった。

 
 

ここは温泉宿。お湯がすばらしいのはもちろんのこと、夕朝のごはんがおいしく、部屋は広くて暖かく、山の中は静かで、働く人が親切でやさしい。すべてが気持ちよく、どうもありがとう。ほらね、わたしもここに泊まった先人たちと同じく、ベタ褒めばかりしている。サンキュー、駒ヶ岳温泉!

【駒ヶ岳温泉】 秋田県仙北市田沢湖生保内字下高野80-68 電話:0187-46-2688



【ミスハタリの秋田旅 20080418-22】
1 上野駅13番ホーム 2 「あけぼの」の青い夜 3 キュートな秋田内陸縦貫鉄道 4 五能線センチメンタル 5 男鹿なまはげライン 6 山荘「駒ヶ岳温泉」 7 青空と桜、田沢湖と角館 8 角館「田町武家屋敷ホテル」と桜旅終章