宇宙日本世田谷の欠けた太陽と、平岡正明さんのこと

日本の陸地で四六年ぶりとなった皆既日食。午前十一時をすぎたころ、世田谷区明大前あたりから見上げた空はくもっていた。月が太陽をすこしだけ食べてしまった時間。クロワッサンみたいな太陽だった。


七月九日の夜中に平岡正明さんが亡くなった。その葬儀のご連絡や受付などのお手伝いが終わり、あらためて平岡正明さんのことを考えていたここ数日。

葬儀の受付をしていて感じたのは、平岡さんの交友関係の幅広さと深さ。ジャズ、文学、革命、落語、浪曲、大道芸、ヨコハマ、歌謡曲、映画、漫画、座頭市……。「評論家」と呼ばれるひとりの人間がさまざまなシーンに交わり、そのいずれにも深い愛情を投げかけていたということ。尋常じゃない好奇心と探究心、そして得意の誤爆を含めた攻撃(単に悪口や喧嘩のことではなく、対象への強い評価も)は、ほかの誰でもない「平岡正明」そのものだった。強烈な個性の持ち主と嫌う読者もいるだろうけれど、実際の平岡さんは、実に懐の深い、愛情の深いひとだった。平岡さんは「守る」というコマンドを持たない、「攻撃する」と「愛する」を突き通した評論家だ、その態度は真摯で優しい。

わたしが平岡正明さんに出会ったのは二〇〇三年の夏だ。もちろん著作はもっと前から読んでいた。いちばんはじめに読んだのは『座頭市 勝新太郎全体論』(河出書房新社)だったか、『大革命論』(河出書房新社)だったか。その当時「スタジオ・ボイス」という雑誌の編集者だったわたしは、「詩人イシュメル・リードのインタヴューを平岡さんに依頼する」という先輩にくっついて、キップ・ハンラハンのライヴに行き、そこで平岡さんと待ち合わせをしていた(今思えば、若い女の子が加われば多少雰囲気がゆるくなるのではという考えだったのかしら)。青山ブルーノートの気取ったホールで、平岡さんにご挨拶をした。実はそのときわたしは会社の仕事とはまったく無関係に「座頭市映画手帖」を作ろうともくろんでいて、その巻頭言を平岡さんに書いていただきたかったのだ。それまで本でしか知らなかった平岡正明という評論家は、たくさんの革命と闘争を経た荒くれ者で、きっと無口で気難しく怖いひとなんだろうと思っていた。が、実際にお会いした平岡さんは気さくに「書くよ、書きましょう、アナタみたいな若い女性が座頭市に惚れているなんておもしろい」とふたつ返事で自費出版の安い稿料の原稿を引き受け、「あンた、アサリさんって言ったね。都々逸にいいのがあるンだ……」と「あさり」にちなんだ都々逸をスルスルとうたいあげ、おまけに座頭市のものまねまで披露してくださった。その数ヵ月後、おっかなびっくりご自宅に電話をすると、「約束の原稿、書いたよ、『座頭市と落語』って言うンだ、桂文楽の落語に『按摩の炬燵』ってのがあってな……」とひとつの長い噺がはじまった。


平岡さんはその後、『大落語』(法政大学出版局)の下巻「座頭市的落語」の章で、わたしと「座頭市映画手帖」についてご紹介してくださった。「ひじょうにいいものだ。」ではじまる文章は、「座頭市映画手帖」に採録した湯浅学さんと岸野雄一さんによる対談「解放と成仏」をとりあげ引用して「〜なんてところは俺のよりいい。」とあっさり評価している。その後、本章では平岡さんによる「座頭市と落語論」が展開していく。その清々しさは実にすばらしいものだ。

座頭市映画手帖」のあとで、会社を辞めてバンドマネージャーとして半年ほどヨーロッパを旅する直前のこと。平岡さんは、わたしを野毛の中華料理屋「萬里」に呼び壮行会をしてくれた。萬里ではそれを含めて五、六回ご馳走になった。萬里のあとは決まってジャズ喫茶の「ダウンビート」に流れた。たまに、煙がもくもくと篭もったせまい店で焼肉を食べ、別のジャズ喫茶に行ったこともあった。みなとみらいの高架下に描かれたグラフィティを眺めながら延々歩いたこともあった。お酒を呑まない平岡さんはいつも素面で、ヨッパライよりも数倍も多くしゃべりつづけた。ジャズのことも社会のこともわたしにはわからないことばかりで、その話し相手にはまるで足らないのに、なぜか平岡さんは幼稚な編集者であるわたしのことを面白がって、何度もヨコハマに呼んでくれた。

平岡正明のDJ寄席

平岡正明のDJ寄席

【ハタリブックス『平岡正明のDJ寄席』特集】

平岡正明のDJ寄席』という本をつくろうという流れになった最初は、浪曲玉川福太郎さんの「天保水滸伝」を浅草木馬亭で観た帰り、六区の「鈴芳」でもつ煮をつつきながらの密談だった(→ ☆その日の様子 2005/12/12の日記)。平岡さんは「俺の本をハタリブックスから出させてやりたいんだ」と言ってくれた。ヨーロッパ旅から帰国して無職のままにふらふらしているわたしのことを気にかけてくださったのだと思う。そしてこの本は「平岡正明と七十/八十年代生まれの七人の若者たち(編集:浅利芙美・入江太郎(朝倉祐二) 企画:佐藤正樹(ハーポ部長) 対談:田中元樹、二木信 装丁:戸塚泰雄 絵:清田弘)」によって作られた(→ ☆2006/09/12の日記)。『平岡正明のDJ寄席』のあとがきで、平岡さんはこう書いている。

平岡正明平岡正明を提供するから、好きなようにかついでくれていいよ。今の若いのはいい。俺をタライに乗せて、ワッショイワッショイ、見ると連中の二の腕に「一心如鏡」の文字が躍っていて、老骨は、われ十六にして鳶の巣文殊山の初陣よりこのかた敵に後を見せたことなし、進めや進め、と言ってりゃよかった。(『平岡正明のDJ寄席』あとがきより)

この本をつくっているあいだ、平岡さんはずっと「キンタマ主義」にこだわっていた。

これが丸ごと平岡の本なら、書題は『キンタマ主義』にした。(中略)すでに『永久男根16』『韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた』の二著があるから、本書を『Kイズム』と題して揃い踏みさせたいのはやまやまなれど、この本がお目見えの若き論者たちもいて、俺の強情が出る芽をつむことをしたくない。(『平岡正明のDJ寄席』あとがきより)

断固、書名からキンタマはのぞきます、とわたしは言いつづけたのだけれども、とちゅうまで仮題はたしかに『平岡正明キンタマ主義』だったし、もうひとりの編集人入江(朝倉)さんとのやりとりは「金玉会議」だった。わたしはこのあとがきの原稿を受け取ったときに、平岡さんの優しさを肌でかんじた。

何度目かの野毛の夜、たしか『平岡正明のDJ寄席』の原稿をすべていただいた日だっただろうか、平岡さんとわたしは並んで歩いていた。どこかを目指していたわけではない、中華街を出て高速道路の高架下の水路沿いを石川町から元町方面に歩いていた。平岡さんは言った。「あンたたちのことは仲間だと思っている。共闘者ってのは六十年代から戦ってきた友人たちのことしか言えない。でもあンたが共働者だってのは間違いない」。平岡さんはそのときちょうど出版したばかりの『哲学的落語家!』(筑摩書房)の表紙裏に「若き共働者へ」とサインをしてくださった(頼んだり頼まずともしてくださったりと、平岡さんの著作にいくつかサインをいただいたけれど、これは『座頭市 勝新太郎全体論』と『哲学的落語家!』のもの)。

 

平岡さんの通夜のために横須賀線を降りた保土ヶ谷の駅は、数年前の夏に原稿を届け、あるいは受け取りに訪れた以来だった。平岡さんは決まって約束の時間よりほんの少しだけ早く着いていて、駅ビルのうどん屋で向かい合ってうどんと親子丼のセットを食べたなあとか、カフェ・ド・クリエで薄いコーヒーを飲みながら、手書き原稿の読めない字をいちいち確認したりしたなあ、と、平岡さんにお付き合いいただいたいくつかの風景を思い出した。葬儀の受付のお手伝いをしていると豪華ラインナップとしか言いようのない各方面の大御所な方々が参列にいらしていて、わたしのようにここ数年にしかお付き合いのない若輩者が一人前にセンチメンタルになるのはどうかとおもうのだけれども、生意気にもあふれ出てくる無力感は、多面体であった平岡正明さんが許してくれる、ほかでもないわたしなりの「感情」かもしれない。

七月十三日、葬儀の日の朝は潔く晴れていた。出棺では山下洋輔トリオの「クレイ」が流れた。平岡さんとのお付き合いが二十年以上にも渡るM新聞社編集局の向井さん、『哲学的落語家!』の編集者でもある浪曲玉川奈々福さん(→)、『大落語』編集者の朝倉さん、「平岡正明のDJ寄席」イベントを企画した席亭ハーポ部長(→)、『平岡正明のDJ寄席』ほか著作を装丁した「nu」の戸塚さん(→)、論者田中元樹さん(→)らと、葬儀のお手伝いをして平岡さんを見送った。会場のスピーカーからから流れていたチェット・ベイカーが途切れ、平岡さんの声がラジオのように語りだす(実際、ラジオ番組を録音したものだ)。もー! 平岡さんってば、死んでる場合じゃないんですけど。

だって、あれほどの文章がほかの誰に書けるだろうか。量も質ももちろん執念も。あれだけの興味と愛情を注ぐことがほかの誰にできるだろうか。多大な知識のストックから瞬時に必要なものが引き出されて、ずるずると横に根を張っていく。過去に自分が書いた文章も、まるでその著作や原稿を目の前にしているかのように、そらで正確に引用した。もちろん喧嘩は真正面から売り買いする。その評論は人を愛し、愛される。ラジオのディスクジョッキーもつとめたその饒舌ぶりには、ひとつも言い訳なんて必要なかった。平岡さんが弾丸のように放った言葉にあるのは、大胆な誤爆と不敵なお囃子だ。その言葉には対象への愛にあふれているんだ。

「あンたほんとうは編集やりたくないでしょ、自分で書きたいことがあるんでしょ、じゃあ書きなさいよ」。平岡さんが言ってくれた言葉に、わたしはいまだに応えられずにいる。 家の電話が鳴るとたいていそれは平岡さんからで、「そろそろ怒ろうか」と笑い声の奥にある真剣さで、原稿を書かずにいるわたしの尻を叩いていた。平岡さんとのほんとうのお付き合いは、きっとこれからはじまる。


平岡正明さんのご冥福を心よりお祈りいたします。