寒い夜にぴたりと閉じ合わせていた雨戸を開けたら昼の町は春の陽気だった。よし、こんな日は映画館で映画を観よう。とびきり馬鹿げた、正しい娯楽映画を観よう。と、思いついて、春めいた陽射しに頭を預けながら井の頭線の各駅停車に乗った。映画館に出かけるのは実にひさしぶりなのだった。ひさしぶりということもあるのか、映画館に向かっているということが、ほんとうになんだか幸福な気分になってきて、映画館へとのびる坂道をスキップしたいくらいだったのだけれども、上映まで時間がなかったので小走りで急いだ。

川島雄三『縞の背広の親分衆』(1961/東宝)。これまでにも何度も川島監督の回顧上映や森繁特集上映で出会う機会があったのについ逃していた映画。森繁久彌フランキー堺のツートップに、マドンナが淡島千景、桂小金冶に有島一郎らが賑やかす、そうだ、『貸間あり』のような顔ぶれだ。物語の筋は至極単純、しかもおとぼけサイドはとことんトンマでわかりやすい。辺り一帯をしめていた昔気質の「大島組」と新興勢力の「風月組」が、両組が奉っている「お狸さま」をめぐっての騒動となる。親分の死後、後継の息子はやくざ稼業を厭ってカタギに進み、後妻にして未亡人のおしま姐さん(淡島千景)が困っていたところ、ブラジルまで兇状旅に出ていた元大島組の凄腕守野圭助(森繁久彌)が十五年ぶりに帰ってきた。先代が大事にしていたお狸さまの一大事とあっては、遠州森の石松の末裔としては血が騒ぐ(もはや森繁=石松という図式が一般常識になっているわけだ)。おしまと圭助と寺のせがれで札扱いの玄人スモーキー・ジョーフランキー堺)は、先代が三人のために遺したという縞の背広をきて組の再建とお狸さまの無事のために気合を入れる、が、しかし、敵の風月組は渡世の素人も素人でしかも揃いも揃って間抜けばかり。後妻であるおしまとそりが合わずに大島家を飛び出たヤンチャな一人娘のまりこ(団令子が「お姐ちゃん」ぶりを発揮)が、両組と男たちの間を奔放に駆け回って事態を混乱させる。……というドタバタ喜劇。

冒頭、森繁のノドで「ベサメ〜、ベサメム〜チョ〜」と始まり、ワクワク気分は高まる。森繁が百貨店のクレーム係として訪問する家々でかつての愛人に出会っては迫られて逃げるシーンや、その森繁から大島組への手紙が巻紙で延々と続いていくばかばかしさには笑ってけれど、どうにも軽妙洒脱というには軽さを裏打ちする何かがこの映画には足りない。川島雄三の喜劇に見られる組み合わせの妙というのがいまいち発揮されていなくて、森繁もフランキーもそれぞれ別売でしかないし、このドタバタ喜劇の核がどこに依拠しているのかがわかりにくい。『貸間あり』はフランキー堺の顔が八方を向いているような器用さだったわけだし、『とんかつ一代』は三木のり平山茶花究らの芸達者が多くいても主軸を担っていたのは森繁の泥臭い誠実さだったわけだ。あれだ、『座頭市と用心棒』はたしかに面白かったけれども、勝新と三船という二人の社長を同じく立てようとしてしまったがために、結局第三の男である岸田森に映画的なインパクトを持っていかれてしまったのと似ている。じゃあこの『縞の背広の親分衆』はどうなのかというと、どうも団令子の『お姐ちゃん』シリーズのようなのだ。わたしたちは淡島千景と森繁のやりとりに心を奪われていたいのに、団令子のぷっくりとした丸顔がその前にちらつく、そしてよくわからないままに映画は大団円を迎えているのだ。

実はひさしぶりに映画を観た。映画はやはり面白いと思う。今日みたいにゆかいな映画を観て声をあげて笑い、うしろや横の席からも同じように笑い声が聞こえると、暗闇のなかに映画が仕掛けたマジックがあるにちがいないと思う。映画のなかで流れたのん気な唄を覚えて、帰りの坂道をゆっくり歩きながら馬鹿げた歌詞を思い出す。映画を観終えたあとにその映画のことをいろいろと思い出す。美味しいごはんを食べたあとに、胃の中にすでにおさまったそれらを心のなかで反芻してはため息をつくように。むずかしい映画を観たならむずかしいと思ったことを考えて言葉にかえていく作業がとてもたのしい。すてきな映画を観たならその画面を恋しく心に浮かべて想像の色を加えていけばいい。どんな種類の感動でもたいていの映画を観れば「また観たい」と思うし、観たい気持ちを募らせること、先に観た映画について考えること、そうして実際に何度もその映画を観られること、それらすべての行為がとても幸福なことだということ、そんな「当たり前」を当たり前の動作で思い起こした一日。

今日は、映画館と映画をめぐる冒険についてのお話でした。