博多南で100系そして500系

この秋から遠出の用事が増え、旅というほど自由気ままではないけれど、これは町を飛び出すチャンス。十月後半は福岡県の博多へ。これまで九州への移動は飛行機ばかりで、山陽新幹線に乗って新神戸駅以西を走るのもこれがはじめて。

山陽新幹線博多駅止まりだけれども、新幹線の車両基地博多南駅にあるため、一時間に二〜四本程度、博多駅博多南駅のあいだを結ぶ「博多南線」を新幹線車両が走っている。

やってきたのはなんと100系! キャー、丸鼻でかわいいったら!


博多南駅から戻ってくるときの車両は500系東海道新幹線を走っていたころは、三本見送っても500系と決めていたので、むかしの友人に会えたようでうれしい気もち。

来年春についに山陽新幹線九州新幹線鹿児島ルートが直結するというポスターがあちこちに貼っているけれども、この博多南駅は通りみちの駅になるわけではないらしい。博多〜博多南の乗降客の多くは博多南駅周辺の住宅地の方々のようで、みなさん淡々と100系500系に乗って通勤通学をしているようすです。ぜいたくだなあ。

秋の町歩き/10月16日という日にむけて

何度かの長い雨を経て、町はすっかり秋すがた。空にはひつじ雲、いわし雲、うろこ雲。真っ直ぐにのびていくひこうき雲のラインも目立ちます。長袖に着替えて(この、薄手の長袖シャツ一枚で歩くことができる季節がすきだ)、予定のない日よう日には町のどこかへ。


二月の天満で出会った黒猫は、今日もまた同じ場所で暮らしていました。


私事ですが、十月十六日に神戸の西側で結婚式を挙げる運びとなりました。会場はいわゆる結婚式場ではないところなので、すべて自分たちで仕込んでいます。紙もの稼業の本領発揮とばかりにはりきって招待状をつくったり、乙女心を引っ張り出してドレスに着替えたり、おもてなし程度の出し物について考えたり、やりたいこととやらねばならないことは山積み、日日の暮らしはパタパタとせわしなく、ときに不要な不機嫌にやられながらも、大らかな家人や頼りになる友人のおかげで、なんとか準備を進めています。それぞれ商売柄、これまでにコンサートやライヴやイベントは、さまざまなシーンで幾度となく仕込んできたわたしと家人ですが、結婚式ははじめて。さて、どうなることでしょう。

六甲山から有馬、岩と山のノスタルジー

子どものころの話。

わたしの父親は山親爺で、週末が近づくとそわそわしはじめて、金曜日の仕事が終わると屋根裏の物置や車庫の奥からは、釣竿やら、魚市場で見かけるような防水のゴムつなぎ(胴から長靴までつながっているやつ)やら、テントやら、いかつい靴やら、ときにはカヌーまで登場させたものでした。時計が午前にまわるころに山仲間が迎えにきました。春は山菜、夏は高山草花や川魚、秋はきのこなど、山の恵みや実りを手みやげに、日曜の夜になると父は家に帰ってきたものでした。北海道の春から秋という短いあいだに、父は週末になるとよく山へ出かけていました。一度だけ、食後に茶の間でテレビを見ていたわたしにこっそりと、チラシの裏に鉛筆で地図を描きながら(ほとんど森だったけれど)、「ここが山小屋ね、このあたりには道はないけど、送電線の下は電力会社の人が草を刈っているから歩けるの。月曜の朝になっても帰ってこなかったらここの人に電話して今の話を伝えといて。ただしこのことは母さんに言っちゃだめよ、心配するから」と言ったことがありました。その週末ばかりはひとりドキドキして過ごしたけれども、父は日曜の夜に何事もなく帰ってきて、蕗だったか山女魚だったかアメマスだったからくようだったか、何かしらの食べられる山の幸をたくさん台所に届けたのでした。

もちろん父が家族を山登りやキャンプに誘うこともありました。誘い自体は多々あったのに、実際にいっしょに出かけたのはそれに比べると実に少ないものでした。わたしはたしか二度か三度、蝦夷富士と呼ばれている羊蹄山に登り、然別湖でテントを張り、そのほか小さな山にすこしだけ登りました。小学校でミニバスケットボール、中学校でバスケットボール部に入ったわたしはチームの練習や試合を理由に、あまり山に付き合わなかったなあと、いまになって、もったいない気分になるのです。

と、いうことを、六甲山を登りながら思い出しました。

ロックガーデンという名のとおりに、岩だらけ。

とちゅうにはすこしだけ水辺もありました。

いまのわたしは町歩きは好きだけど、山まではずっと遠くて、ようやく買ったのは水をはじく上等な靴(とはいえソフトなつくりで、山登りも町歩きも兼用できる程度のもの)くらいで、カラフルな上着も中途半端な丈の半ズボンも、大きなリュックも持っていません。阪急芦屋川の駅からトコトコ歩いて登山口まで行けるような、気軽な山でありながら、いざ登ってみると、六甲山はなかなかに厳しい顔で心身をいじめてきます。わたしはすっかり運動不足の自分の身体を励ましながらも、ときによそ見をして、今度は北海道で山に登りたいな、できることなら父と、でも山での父はあまりやさしくないから、ちゃんと鍛えてからでないと置いておかれるだろうなあ、なんて思っていたのでした。

六甲山最高峰は標高九三一メートル。なんとなく「高尾山と同じくらいかな」と思っていて、実際に登ってみたら高尾山よりも三百メートル以上も高かったのでおどろきました。無知とは怖いものです。

有馬へと抜ける道はわりとつまらなく、さっさと下山。有馬温泉の濁って熱い金泉に浸かり、疲労と湯上がりで火照った身体に流し込んだ生ビールのおいしいことといったら。この感覚も今なら父と共有できる気がするのです。

バイバイ、マイスティース

客席でライヴを観て、その場に居合わせて、観察し体感し想像できた気もちのよい終着駅。それは四ヶ月をすぎたいまになっても、四月十六日のことを思い出せばふと浮かびあがる感覚であり、そこからつづいてきている日々をふりかえってみても、まちがいない感覚だと思わせる。

この日記は、二〇一〇年四月十六日に大阪梅田Shangri-Laで行なわれたTHE MICETEETH.のラストライヴから、ゆうに四ヶ月以上が過ぎた七月になってようやく書いています。どうして長く書かずにいたのかという理由の半分以上は、わたしが「モハキハ」というお店を営業していくことにテイッパイだったという言い訳で占められるのですが、すぐに手をつけるのを戸惑わせるような気もちがずっと伴っていたという言い訳もひとつありました。その日に感じた「終着」が、ほんとうに、終着駅のホームのどん詰まりにある車止めが告げるような「終着」であるのか、それを見届けてからでないと書けないような気がしていたのです。

かつてTHE MICETEETH.というバンドがありました。

一九九九年の大阪で、十人ほどの男の子たちが集まって、幼稚なまでにまっすぐな熱情からマイスティースというバンドが誕生した。ヤンチャな心意気と、好きなものに対する頑固さと、洒落た感性と、泥臭い向上心で、いくつもの面倒や厄介ごとを乗り越え、たくさんの祝福を受けてきた。数多くのライヴ、数枚のレコードやCD、映像、バンドの物販物としては多すぎるほどのTシャツを生み出していった。二〇〇〇年代の半ばまでをあざやかに駆け抜け、いつのまにか尻すぼみになるかたちで休眠していった終盤。それから一年以上のだんまりを決めこんで、二〇〇九年四月に公式に解散(と、まるで歴史の証人のような書き方をしていますが、わたしがマイスティースを知ったのは解散発表直前の時期であり、すべて伝聞による情報で、知ったようなくちをきいているだけです。それはまったくもって、ベスト盤に書かれたメンバーによる長ったらしいライナーを読んで得た知識と、発信された視点はちがえども、似たようなものかもしれません)。

その後、今年一月に東京代官山のUNITにてタワーレコード30周年記念イベント内での「解散ライヴ」(→ ☆2010/01/10の日記 さよなら、ありがとう、いってきます 〜THE MICETEETHの「点と線」)という機会があった。「解散後の解散ライヴ」が許されるのなら、ホームグラウンドの大阪で幕を引かないわけにはいかない、という動きがおそらくあったのだろう。梅田のShangri-Laのフロアには、観客や関係者がたくさん集まっていた。

東京のライヴと明らかにちがっていたのは、どこかからりと乾いた明るい空気。観客の多くはおそらく三十代、バンドと同じ年ごろか、やや年上。マイスティースの音楽が自身の十年間と近しいところにあっただろう人たち。思い入れの強いファンなら「青春の終わり」とでも称しそうな「最後の日」であるのはまちがいないのに、センチメンタルとはほど遠い、果てを抜けたあとのようなすっきりとした明るさがフロアに満ちていた。卒業式をとっくに超えてしまった、むしろ同窓会のような様相。代官山UNITのときとはずいぶんとちがう。なんだかワクワクしている。みんな、なにを待っているのだろう。「終わらない時がつづく」ことではなく「終わることへの納得」。嘆き悲しみ引き止めるだけが終わりの儀式ではないということを、その場にいる人たちみんながわかっていた。それはフロアも、ステージも、楽屋もきっと同じ。その気もちよさが開演前からすでにあった。

ステージにメンバーが登場し、野次が飛び、協賛のサントリーが提供した「山崎10年」のボトルがフロアを渡りゆく。UNITでのライヴは、メンバーが集まってマイスティースとして演奏すること自体が一年以上ぶりだったこともあり、またフロアの期待と感傷に追い立てられ、ずいぶんと緊迫したオープニングだった。バンドが休眠していたための、当たり前の不自然さ。それこそが現実的な音であり、いままでの音源と聴き比べると、音楽とはナマモノであると感じさせておもしろい。その様子は『20100110』で聴くことができる。

20100110

20100110

それに比べて、大阪でのライヴはよい意味で客席とステージが共犯関係にあった。「もう終わっている」ということの強み。投げやりでも乱暴な遣り口でもなくて、それは事実にすぎない。かつて密な時間を過ごしていたメンバーは、今ではそれぞれに別の活動をしていて、もちろんところどころ重なっているバンドもあるけれども、住まいを別の町に移した人もいるという。毎日のように会って生活と音楽の境目もなく暮らしていた仲間が、いつしか会わなくなって、それぞれに別の場をみつけて、あるいはつくり出して、いくつもの日がすぎていた。それがこうして再会し、むかしのように音を重ねてみれば、思い出されるのはかつて慣れ親しんだ、気もちのよいフィット感。ただしそこには明らかな違和感が生まれてきている。それを無視するか、別れの合図ととるか。

1 Oldman Silence / 2 Guilty Boy / 3 Ohio Man / 4 Tomorrow more than words / 5 Sleep on Steps / 6 one small humming to big pining 夜明けの小舟 / 7 -ネモ- / 8 Salvia / 9 霧の中/ 10 ゴメンネベティ / 11 レモンの花が咲いていた / 12 THE SKY BALL / 13 あいのけもの / 14 春のあぶく / encore01-1 陽のひとひら / encore01-2 春の光 / encore02-1 Please, please take me down / encore02-2 ムーンリバー / encore02-3 トルキッシュコルト / encore02-4 Rainbow Town

この日のマイスティースはほんとうに気もちのよいバンドだった。アンコールでは、いわゆる「むかしのメンバー」がサプライズで登場。金澤くん、和田くん、森寺くん、藤井くん、次松くんに、サポートメンバーである武井さん、前田さん、寺田くんを加えた、後期マイスティースを築いた八名。そこに初期衝動をともにした吉田くん、村岡くん、佐々木くん、樋口くん、田淵くん、田中くんの六名が加わり、なんとも豪快で勢いのあるトルキッシュコルト。そしてRainbow Town。音はよれてむちゃくちゃだし、適量を超えたお酒でドラムはへろへろだし、次松くんはインスト部分で寝てしまって歌に入れなくなるし、誰もが笑っているし、幸福な歓声がステージを取り囲んでいる。こんな葬式なら、マイスティースの音楽は成仏できるでしょう。

わたしはこのバンドが実質活動していた時代を知らなく、あいまいな休眠状態にやきもきし、そして解散後に突如として種明かしのように語りだした『20100110』『WAS』のやり方に、実はすこし首をかしげていたのだけれども、この日の「終わり」は実にすっきりとしたもので、その場に居合わせた多くのひとと同じように、ひとつの「終わり」のあり方を、観察し体感し想像できた。

その後、気もちのよい打上げがつづき、たくさんのお酒をのみ、いくつかの写真を撮ったけれど、たいていはひとに見せられる写真ではなかった。そして目が覚めると朝だった。雨は夜のうちに上がり、春の日差しに照らされた台所で、新しいコーヒーをいれた。おはよう、おつかれさま、いってらっしゃい、たのしみにしています、なにを、なにかを、なんでしょう。


その後の四ヶ月、友人のライヴや生活の場で、メンバー同士が顔をあわせるシーンは当然あって、センチメンタルな意味ではなくただの現実として、途切れなく日日がつづいていることを感じさせます。

http://themiceteeth.com/

そのうちのひとり、和田拓くんはどうするのかなと思っていたら、ある日のこと、わたしが夕ごはんの餃子を包んで焼くのに夢中になっているあいだに、とつぜんブログを立ち上げていました。マイスティース終盤には「ウリチパン郡」のサポート、解散後は「道路」というゆるやかなバンドで演奏したり、ピアノ弾き語りのmomoさんと長崎県五島列島にある無人島の教会で演奏をしたりしていた彼は、七月にソロ名義でのはじめてのライヴを行ないました。これからバンドを組むことも考えているだろうし、ラヴァーズやスカのレコードをかけるDJとしての活動もつづけていくでしょう。そしてなにより「一音楽人」としての心意気に満ちています。

http://d.hatena.ne.jp/hiluckbasss/


「終着駅は始発駅」、宮脇俊三さんの著作名ですが、まさにそのとおりのライヴでした。

バイバイ、マイスティース(予告篇)

かつてTHE MICETEETH.というバンドがありました。昨年四月に解散を発表して、今年一月に東京代官山のUNITにてタワーレコード30周年記念イベント内での「解散ライヴ」(→ ☆2010/01/10の日記 さよなら、ありがとう、いってきます 〜THE MICETEETHの「点と線」)。そこで終わりなのかとおもいきや、やはりホームグラウンドである大阪でやらずに幕は引けません、という流れになったのかどうか。縁あって幸い大阪に暮らしているので、明日、梅田のShangri-Laで行なわれる最後のライヴを観にいくことにしました。

20100110

20100110

一月のライヴの模様が『20100110』としてリリース。ライナーの文字数にびっくり。これまでマイスティースは「語らない」バンドだとおもっていたので、「語り尽くし」に傾いていたのにもびっくり。ライヴの音楽はハラハラするほどの緊張感に満ちていて、これまでにない(バンドでありながらバンドから遠く離れていくような)バンドサウンドになっている。

ワズ ベスト盤 TEE MiCETEETH.BEST WAS

ワズ ベスト盤 TEE MiCETEETH.BEST WAS

こちらはベスト盤『WAS』。時間軸から解放されて再構築された曲順は、やはりというか思いのほかというか、淡々とした流れになっている。九年間という時間を切り出すようにリリースされたアルバム単位で評価できるほどバンドの成長と惰性は単純なものではないけれど、「線」としてつながっていく流動的な時間を「点」としてドロップしたアルバムというものは、やはりクロニクルにおける有効な要素であるのだなあとあらためて感じた。だから、ベスト盤を聴いたあとにこっそりわたしは『CONSTANT MUSIC』『MEETING』『baby』『from RAINBOW TOWN』の順で再生したのでした。それでも今までの論理を無視してシャッフルされたベスト盤は、クール(言い方を変えれば無機質)な態度でそれが新鮮でもあるので、今後はときどき聴いていくことになるかなとおもいます。

明日のライヴはすでにチケットは完売。
インターネットのUSTREAMでライヴの模様が生中継で配信されるそうです。

THE MICETEETH.のラストライブがUSTREAMにて完全生中継決定

P-VINE Live チャンネル』
OA日時:2010年4月16日(金) 18:00〜
内容:THE MICETEETH.のラストライブを完全生中継
詳細:http://www.ustream.tv/channel/p-vine
Twitter用hashtag「#themiceteeth」メンバーへのメッセージや感想等お待ちしております。

明日がたのしみです。

大阪桜時間

昨年までは神田川沿いの桜をながめながら井の頭公園へ向かう散歩がこの時期のお決まりだった。公園の手前で路地を曲がり、菜の花と桃の花と桜がそれぞれ勝手に咲き乱れ、地面からつくしがにょきにょきと生えていた、あの放ったらかしの原っぱはきっと今時期はとても色鮮やかなことだろう。それが今年の春は、大阪の町を歩きながら桜の花を見上げている。新しく好きになる景色を探してわたしは歩く。

モハキハがお休みの金よう日には町に出よう。自転車には乗らず、ひたすら歩こう。近所の公園、神社、大川沿いの桜など、わたしが知っているいくつかの場所で咲いている桜を眺める。日暮れまでにはあと一時間、行って歩いて戻ってちょうど一時間。上方花見の定番、大阪城公園へ。宴会のにぎわい、ビデオキャメラを回しながら歩く家族連れ、外国からやって来た観光客の行列。ああ、そうだ。昨年の同じころに、はじめて大阪城公園で散りかけの桜を見た。旅と日常のあいだくらいの気分で歩いてきた大阪城公園。その日はとてもあたたかかったのに、日暮れとともに陽気が逃げていき、すこし薄着だったわたしは、夜になって強くなった風に吹かれて肌寒く感じていた。あれから一年ぶりの桜、つまりようやく季節が一巡したのだ。あっという間にすぎていったこの短い日日は、驚くほどに密度の濃い時間で満ちている。思ったこと感じたことのひとつひとつが、いまだしぶとく鮮明な輪郭をもって記憶になっている。そのクリアな感覚は今日のわたしをしあわせにさせる。

そんなわけで、こちらでの暮らしはなかなかたのしく、きらきらしています。

春の奈良へ、ふたり旅

桜がちょうど花開いて町が華やかになったちょうどよいタイミングで、札幌からママハタリがやって来ました。二泊三日の関西旅行を一緒に。大阪在住歴はまだ三ヶ月、案内できるほどくわしくないし、ミーハーだし、なにより散歩の延長ですこし遠くに出かけたい。住んでいる町から近鉄に乗ってもJRに揺られても小一時間で行ける町、奈良へ。昨年の秋に訪れた以来です(→☆ 2009年11月4日の日記 秋の日の奈良さんぽと「くるみの木」)。桜時期と平城遷都千三百年記念が重なって、国内外の旅行者でにぎわっていました。

興福寺では阿修羅像などの国宝や重要文化財を一気に鑑賞。その価値についてはわかったようなふりしかできないけれど、パッと見たときに感じたことで言えば、鎌倉時代のものという木造の金剛力士像、昔だからとか今だからとかではなく、こんなすばらしいものをつくるひとが世の中にはいる/いたということ、その創造を支えぬいた精神力と体力の強さを想像して圧倒されるまでなのでした。

奈良公園で鹿に囲まれ、たくさんの桜を眺め、奈良ホテルの喫茶室で庭を眺めながらお茶。ウェイトレスの制服が赤いクラシカルなワンピースでかわいらしかった。喫茶室のとなりのバーの椅子が赤いベロアできゅんとしました。泊まってみたいなあ。

おみやげは鹿みくじ。

鹿のおしりに穴があいていて、赤い紐を引くとおみくじが出てきます。

昨年から今年にかけてよく札幌に帰っていたので、ママハタリに会う機会はたくさんあったのだけれども、春と秋の恒例となっていたふたり旅行は二年ぶりだったのでした。そうだ、前にも秋田、角館で満開の桜をいっしょに眺め、いっしょに川べりを歩いたことがありました(→☆ 2008年4月24日の日記 ミスハタリの秋田旅 7 青空と桜、田沢湖と角館)。わたしたちはたくさん並んで歩いて、たくさんおしゃべりをして、短い時間を長く過ごす。わたしたちは歩くスピードもしゃべるスピードもわりと近い。ふだんひとりで鉄道に乗ってばかりのむちゃな旅をしているわたしにとって、母との「旅行」はいつものひとり旅とは勝手はちがうけれど、じつに心地よくたのしいトラベルなのです。